展評
ギャラリー・ハシモトで開催されていた小森はるか+瀬尾夏美「あたらしい地面/地底のうたを聴く」展について。前作(「波のした、土のうえ」)と比較すると、被写体となる人物たちとカメラの距離が一歩踏み込んだ距離、関係になっている印象を受けたが、そ…
宮城県美術館で開催されている「針生一郎と戦後美術」展について。「戦後美術」を語る時に気を付けなければならないのは、戦後を、それ以前の歴史、つまり戦中と断絶したものとして語ってしまうことだが、この展覧会から感じたのは戦中と戦後の連続性であっ…
「少女愛」や「古典」との関係性が強調されて語られることが多い作家だが、種村季弘が『魔術的リアリズム』(PARUKO出版)の中で、マネキンを描いたデ・キリコの絵画の延長線上に、バルティスの硬直した人物たちを見ていたことを思い出せば、バルティスの絵…
ゴッホのパリ時代(1886〜88年)を焦点とした展覧会であるので、晩年の狂気じみた作品は出品されていないが、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館が所蔵するパリ時代の作品郡は十分に見る価値があったと思う。気になったのは石膏像(トルソ)を描いた油彩…
『噫!怒涛の閉塞艦』という巨大な木版画が展示されていたのだけれども、これは2005年に制作された『風雲13号地』と対になる作品らしい。おそらく『風雲13号地』で予見されていた大艦巨砲主義で開発一辺倒に突き進む日本の「成長神話」に対する危うさが、原…
丸沼芸術の森所蔵の作品群。水彩による習作が多数展示されていたが、それらはデッサンを引き立たせるものではなく、対象を色彩で素早く大まかに捉えることを目的としているものであった。荒目の水彩画紙に染みや滲みの効果を用いて建物(オルソン・ハウス)…
赤く塗られたベニヤ板に白チョークで文字が書かれている部分だけを採り上げて見れば、「見る」ものとしてではなく、「読む」ものとして、作品が提示されていたと言えなくもないが、イメージの否定(「イメージで世界を描く時代は終わった」)から、「ことば…
色使いがロマネスク絵画的。意識しているのか、色数を制約しているのかは分からないが、褐色した赤を基調にした色使いで子供の「イコン」が描かれている。ゴシック以降に登場する彩度の高い「青」は見られない。テンペラと油彩による混合技法が用いられてい…
ギャラリー・カフェという空間の制約から、窮屈な空間に作品が展示されていたが、津波で流された建築物の基礎部分を撮影した写真郡がベッヒャー夫妻のタイポロジー作品のように組合せられて展示されていたのは印象的であった。ただ写真集『町の跡形』(会場…
『着衣のマハ』が目玉作品のようだったけれど、個人的には『マハ』よりも『赤い礼服の国王カルロス4世』や、『カルロス4世家族』の為の習作と思われる『マリア・ホセファ内親王』『スペイン王子フランシスコ・デ・パウラ・アントニオの肖像』といった、こ…
ここでいう「光と影」は、王権と法王権の対立と考えると理解が進むかと思う。どちらが光で、どちらが影なのかということは、当事者からしたら常に自分たちの側が光で、相手方が影となることなので、あまり真剣に考えても仕方のないことなのだけれど、歴史的…
ロートレックのリトグラフには、どこかドミーエの風刺画を思いおこさせるものがある。しかしロートレックが描く人物は、ドミーエのような形体をデフォルメすることで、人物の内面や本性を戯画(カリカチュア)することを目的としたものではない。それは劇場…
エドワード・ホッパー『都会に近づく』不思議な作品。画面の上半分だけを見たら何の取り柄もない都会の風景が描かれているのだけれど、周到に視線の逃げ場が消されているので、視線は画面下半分に描かれているレールの線に導かれて、地下鉄の入り口に向かう…
エドワード・ホッパー『日曜日』画面手前にある鋭角な三角形の斜辺の上に男が一人座っている。背景に建物が描かれているのに、どこか不安定な感じ、画面を支えている均等が崩れそうな危うさを感じるのは、この三角形のせいだろうか。よく見ると画面上辺にも…
壁面が確保し難い会場であったので、今回も前回と同様に、床面を基準にして展示スペースが各作家に割り当てられていたと思うのですが、今回は2つの会場が共に2階から1階を見下ろせる会場であったので、前回より床面へ視線が向かう作品が多いように思う。…
線描を排しているからなのか、日本画にしては近視的な作品になっておらず、遠くから離れても見られる絵画となっているので好感は持てる。気がついたのは、当初は春や秋といった季節が主題に選ばれ描かれていたのが、徐々に、夕刻や朝日あるいは、月夜といっ…
「3・11以後の美術」という幻想 所沢ビエンナーレがどうのこうのという事ではないのですけれど、関東に来て思ったのは、おそらくいろんな人が「3・11以後の美術」について、いろいろと語っているのだろうけれど、日本の美術はこれまで通り何も変わらないのだ…
東北から関東に来ると、作品を制作して発表することが、ごく当たり前に行われているのでちょっと戸惑います。戸惑うというのはどういうことかというと、被災地との距離が意識されないまま、「3・11後の美術」という言葉が独り歩きしているように思えてしまう…
ドガの絵画を見ていると、人物と床面の関係に違和感を覚えることが多い。ドガの絵画では、床面に対する視点が人物に対する視点よりも高い、全体を俯瞰するような位置に設定されていることが多いので、どうしても人物が床の上にしっかりと立っているように見…
ドガの『障害競馬−落馬した騎手』は、仰向けに倒れる人物(落馬した騎手)と馬という組み合わせから、どことなくカラヴァッジョの『パウロの回心』を彷彿させる作品である。もっともカラヴァッジョの『パウロの回心』が、天からの啓示という劇的な瞬間を描い…
ゴッホの『緑の葡萄畑』は、まるでテーブルの上に置かれたじゃがいもを描くかのように(『籠一杯のじゃがいも』)、大地が上から見下ろされ、絵の具がキャンバスの上に置かれている。おそらく無意識的にテーブルとタブローが同義語なものであるという理解が…
萩原碌山の『坑夫』と『労働者』には驚きがある。これらの作品にみられる大胆な決断、つまり「断片化」された人体というのは、人体をプロポーションするという思想がなければ下せない判断である。そこには多くの日本人が直面した西欧との肉体的な差異という…
善光寺界隈にある松葉屋家具で開催中の『大地と空、火と草色、秋のギャッベ展』について。GABBEH(ギャッベ)は、イランの遊牧民、カシュガイ族の絨毯のことであるのだけれど、2年ほど前にこの会場で始めて眼にした時には思わず北欧あたりのデザインかなと…
無人島プロダクションで開催中の風間サチコの展覧会について。大作が多い風間の展覧会としては、小さなサイズの作品で纏めた感じがする展覧会であったが、ウィットに富んだ独特の風刺画には、随所に風間ならではの鋭い批判精神が見られる。以前から、風間の…
SARP(仙台アーティスト・ランプレイス)で開催されていた「高山登」展について。オープニングで、作家本人と話す機会が少しあったのだけれど、印象的だったのは「幾何学」を使って思考しているということをはっきりと明言されていたこと。日本の場合、情緒…
会場入口の部屋に、ドランとヴラマンクとマティスの作品が、それぞれ順に並んで展示されていたのだけれど、それが深い緑、沈んだ青、鮮やかな赤、という感じの流れで纏まっていて、とても見やすい展示順になっていた。あとでよくよく考えてみたら、「野獣派…
気になったのは、キャンヴァスの白地に対する意識のなさである。それは正確にいうと、白地に対する意識のなさというよりも、平面の持つイリュージョン性に対する拒否であると思うのだが、ここではロウ・キャンヴァスが使用されているにも関わらず、色彩とキ…
天井から逆さに吊るされたグランド・ピアノの存在が、まず目を引くのだけれど、それは目線を上に上げはするが、バロックの様な上方に突き抜けていく視線ではなく、どちらかと言えば上方に圧迫感を覚えさせるものであって、強調されているのは上部構造の不在…
高山の「枕木」には、「木」という素材が持つ温もり、あるいは手触り感といったものが見られない。高山のタールの染み込んだ「枕木」に見られるのは、「木」という素材に対して示される親近感の拒絶である。この拒絶は、「木」という素材にタールを染み込ま…
鴻池朋子展「インタートラベラー神話と遊ぶ人」違和感を覚えたのは、「物語」ということが随分と叫ばれていたのだけれど、ここでいう「物語」とは、絵画の外での出来事を指示すものであって、それは半ば強制的に会場の入り口と出口を「始まり―終わり」と見立…