石川雷太展『遊撃〜平成パルチザン』/Gallery TURNAROUND

赤く塗られたベニヤ板に白チョークで文字が書かれている部分だけを採り上げて見れば、「見る」ものとしてではなく、「読む」ものとして、作品が提示されていたと言えなくもないが、イメージの否定(「イメージで世界を描く時代は終わった」)から、「ことば」の選択がなされている割には、イメージが否定され切れていない。もし、本当にイメージというものを否定して、「ことば」を選択するというのなら、プロテスタント並みにテクストから色彩を追放すべきではないのか。イメージの否定というのはイコノクラスム(偶像破壊論)だけでは完了しない。それはクロモクラスム(色彩破壊論)も必要とする。15世紀に、聖書というテクストから色彩が追放されてモノクロのテクストが登場普及するのは、グーテンベルク活版印刷が登場することによって手描きによる彩色写本が廃れたからではない。それは技術的な問題ではなく、思想(信仰)を巡る問題である。

石川の赤地に白抜きの文字で構成されたテクストは明らかにイメージの否定としては不完全なものである。チョークで殴り書きされた文字にデザイン性は感じられないが、赤地に白抜きされた文字には十分にデザイン性があり、色彩がもたらすイメージの効果が最大限活用されている。石川は「物質で「美術」を破壊する」というが、ここで石川のテクストを作品として成立させているのは色彩という物質である。そもそも「ことば」という非物質的なものに、物質性を与えられたものが「文字」である以上。文字を用いている作品から物質性を排除し、それを否定すること自体が無謀なことなのである。

文字を用いている作品から物質性を排除することは難しい。しかし、それを「見る」対象としてではなく、「読む」対象として提示することなら幾らかは可能である。たとえば彩色写本である。それは文字に色彩が与えられ、装飾・デザイン化されることによって、次第に「読む」ものであると同時に、「見る」ものへと変化していった。従って、「読む→見る」ものではなく、「見る→読む」ものとしたいなら、この逆を行けばよいのである。つまり、色彩という物質を排するのである。しかし、石川の作品には色彩がある。白抜きの文字を支えているのは赤い地である。それは何故か。おそらく無意識の領域で視覚の絶対的な優位性が確保されているからである。

「ことば」というものを感知するのは視覚だけではない。「ことば」は、文字として視認出来なくとも聴覚で聞くことも出来るし、点字のように触覚で認識することも出来る。というか、16世紀に視覚の優位性が確立されるまでは、むしろ聴覚や触覚の方が視覚よりも「ことば」という非物質的なものを認識するのに適していると考えられていたと言ってよい。しかし、イメージを否定する石川の作品が示しているのは視覚の優位性である。もちろん聴覚に関しては、石川にはノイズ音楽によるパフォーマンスがあるので多少留保しなければならない点があるが、それでも彼の作品(テクスト)は音読されなくてはならないものだろうかと考えると。やはり聴覚ではなく視覚を前提とした作品。つまり黙読されることを前提としたテクストであると言えるだろう。触覚に関しては、触れば消えてしまうチョークで書かれているだけでなく、有刺鉄線によって完全に拒絶されている。

石川は「制度」を問題とする。しかし、石川の作品が示しているのは美術というものが、いかに視覚の優位性に立脚しているか、物質性によって成立しているかということではないだろうか。もちろん、このことを「制度」と呼んで攻撃することも可能だ。有刺鉄線を乗り越えて文字を消してしまえばよい。しかし、石川の示すテクストはその先に何があるかは答えてくれないだろう。石川の作品が示すのは、視覚の優位性や作品の物質性に対する攻撃ではなく、美術というものは視覚の優位性と作品の物質性によって成立しているという事実であると思うのは、私だけだろうか。