「わが愛憎の画家たち‐針生一郎と戦後美術」展/宮城県美術館

宮城県美術館で開催されている「針生一郎と戦後美術」展について。「戦後美術」を語る時に気を付けなければならないのは、戦後を、それ以前の歴史、つまり戦中と断絶したものとして語ってしまうことだが、この展覧会から感じたのは戦中と戦後の連続性であった。もっとも歴史の連続性といっても、会場に戦中の作品は一点も展示されていない。全て戦後に制作された作品だけで構成されている。しかし不在であるが故に、その存在を強烈に意識させる作品があった。それは藤田嗣治の「アッツ島玉砕」である。

針生の藤田に対しての厳しい批判はよく知られている。「愛憎」ではなく、「憎悪」の対象であったと言っていいと思うのだが、藤田の名をここで持ち出すのは「ボディ・ホラー」という観点から見ると、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」と、ここで展示されている戦後絵画(例えば福沢一郎「敗戦群像」、鶴岡政男「夜の群像」、阿部展也「飢え」、丸木位理・俊「原爆の図」、河原温「浴室」などの作品)の間には、確かな連続性があると思えるからである。

もちろん、ここでいう「ボディ・ホラー」という連続性は、あくまでも藤田に対するアンチ・テーゼとして成立しているものであって、藤田の絵画に反戦的なメッセージが先取りされていという意味ではない。部隊の「全滅」を「玉砕」と政治的に美化することに貢献した藤田の「アッツ島玉砕」が戦争の審美化の極地だとしたら、戦後の絵画は「戦争を美しいものとしては描かない」という立ち位置から始まる。彼らは、戦中に戦争画を担った中心的な人物たちが、戦後になると何事もなかったかのように「ボディ・ホラー」を捨て、ただ美しいだけの凡庸な作品を描き始めるのと入れ替わるように登場し、「ボディ・ホラー」を描き始める。

戦後の「ボディ・ホラー」が目指したのは、「美しくないものを、美しくないもの」として描くということである。しかしこのアンチ・テーゼも、何時しか過去との断絶と理解されるようになり、急激にその意義が失われ始める。この展覧会でいうと第8章以降の「環境彫刻」「環境造形」という言葉が登場し始める頃から、作品で言うと高松次郎の「影」シリーズ辺りを転機に、「ボディ・ホラー」という表現方法は消えていくことになる。そして平面から立体への動きが加速していき、代わりに病的に「衛生」的なオープン・スペースが登場してくるのである。


※補足
藤田の「アッツ島玉砕」には、関東大震災後に出回ったセンセーショナルな写真、死(体)の表象との類似性が確認出来るので、「ボディ・ホラー」の連続性は戦前からあると言うことが出来るかも知れない。