2012-01-01から1年間の記事一覧

画家の身分と職分

画家の身分と職分『美術手帳』の10月号で山下祐二が「教育方法を現行の美大システムから、丁稚奉公、徒弟制度に戻さない限り、なかなか超絶技巧を持った作家は生まれてこないでしょう」(「超絶技巧の絵画史」)とコメントしているが、山下の発言には「丁稚…

『美術手帳』(2012.10月号)特集「超絶技巧!!」

NHK出版による本かと思うほど、ここ最近のNHKのテレビ番組(「日曜美術館」など)と内容が重なる特集記事であるのだけれど、山下祐二の「この日本には、時流やマーケットの動向なんてものとはさらさら関係なく、ただひたすら、修行僧のように、自らの技巧を…

石巻 

石巻ハリストス正教会

奈良美智と侏儒趣味

16〜17世紀頃、ヨーロッパの王室宮廷では侏儒趣味、つまり小人に対する偏愛が流行していて、ベラスケスなんかが随分と絵に描いている。この辺の事情については、樺山紘一の「侏儒の王国−異形にやどる英知」(『世界史への扉』講談社学術文庫)を読んでもらえ…

ポロックの「非ヨーロッパ的性格」について

「生誕100年ジャクソン・ポロック展」(国立近代美術館)についてのメモヨーロッパとアメリカという対比からポロックの絵画について考察すると。おそらく両者の一番の違いは、テクストの有無である。ヨーロッパには聖書やアリストテレスといった、常に立ち戻…

『アンドリュー・ワイエス展 オルソン・ハウスの物語』/宮城県美術館

丸沼芸術の森所蔵の作品群。水彩による習作が多数展示されていたが、それらはデッサンを引き立たせるものではなく、対象を色彩で素早く大まかに捉えることを目的としているものであった。荒目の水彩画紙に染みや滲みの効果を用いて建物(オルソン・ハウス)…

石川雷太展『遊撃〜平成パルチザン』/Gallery TURNAROUND

赤く塗られたベニヤ板に白チョークで文字が書かれている部分だけを採り上げて見れば、「見る」ものとしてではなく、「読む」ものとして、作品が提示されていたと言えなくもないが、イメージの否定(「イメージで世界を描く時代は終わった」)から、「ことば…

産経ニュース:「通行人もびっくり!?死んだ猫をヘリコプターに」(http://sankei.jp.msn.com/world/news/120605/erp12060513050004-n1.htm) 「死んだ猫」の先例としては、ルーブル美術館にあるジェリコーの静物画(「死んだ猫」)を挙げることが出来るかと…

エミリア・ロマーニャ州地震の被災地向け寄付金口座が開設されたようです。 以下、在日イタリア大使館HPより転載(http://www.ambtokyo.esteri.it/Ambasciata_Tokyo) エミリア・ロマーニャ州地震の被災地向け寄付金口座開設先般、北イタリアのエミリア・ロ…

村上隆×椹木野衣「アート憂国放談」(『芸術新潮』2012.5月号)

村上隆について。確か、以前は近代化以前の日本の美術には「ヒエラルキー構造はない」と発言していたと思うのですが、今度は一転して、「日本の歴史において芸能、芸術の徒は非人であり、人ではないものに分類されているにもかかわらず、人間としてのアイデ…

永瀬恭一「脱美学―ブロークンモダンの諸相」(『組立−作品を登る』)

「批評がない」という定型句に対して、「批評はあるけれども構造に従属している」のが現状だという分析と考察は鋭い。おそらく、この論考を通して著者が読者に求めているのは、現状に対する認識の問い直しだけではなく、批評を十分に機能させない「構造」を…

樋口佳絵・絵画展「みずたま」(art room Enoma)

色使いがロマネスク絵画的。意識しているのか、色数を制約しているのかは分からないが、褐色した赤を基調にした色使いで子供の「イコン」が描かれている。ゴシック以降に登場する彩度の高い「青」は見られない。テンペラと油彩による混合技法が用いられてい…

樋口徹写真展「町の跡形」(PICNICA)

ギャラリー・カフェという空間の制約から、窮屈な空間に作品が展示されていたが、津波で流された建築物の基礎部分を撮影した写真郡がベッヒャー夫妻のタイポロジー作品のように組合せられて展示されていたのは印象的であった。ただ写真集『町の跡形』(会場…

テーブルとタブロー

テーブル(table)とタブロー(tableau)の関係性は、tabulaというラテン語の語源から考えるよりも、ゴッシク建築の確立によって生まれた概念、関係性と捉えた方が、より具体的なものとなる。なぜ、ゴシックなのか。ゴシック建築ではステンドグラスという「…

床面について(補足)

床面を、文化を産出する机の下にあるものと見ると、必然的に床は机の文化に対抗、反抗する反文化的な場と見られることなる。しかし床というのは、文化を産出する場であったことはないかも知れないが、過っては世界を表象する場であった。もしかしたら建築を…

境澤邦泰「絵画と視線の行方」(『組立−作品を登る』)

絵画の平面性とテーブルの平面性の関係が、画家の視点から分かりやすく書かれているという点に於いて、非常に優れた文章、論考であると思うのだが、ただ一点だけ、「床面」についての件には少し物足りなさを感じる。床は、ただ足の裏で踏まれるだけの場なの…

気仙沼

椹木野衣「五百羅漢とは誰か」(『美術手帳』2012.4月号)

カタールまで村上隆の個展を見に行っているのは凄いことだと思うが、肝心の作品については、ほとんど何も語られていない。何故、語られるのが「作品」ではなく「作家」なのか。観者が求めるのは「作品」と対峙することであって、「作家」と対峙することでは…

美術教育を批判していれば現代美術になる

日本の美術教育に問題があるのは確かだけれど、一番の問題は、現役の学生でもない人達、もう美術学校を卒業して何十年も経つ人達が延々と美術教育に対する批判を言い続けていること。何故、現役の学生でもない人達が美術教育にたいする批判を言い続けるのか…

椹木野依批判

椹木野衣「地質活動期の美術」(二)椹木野衣「地質活動期の美術」(『文學界』2012.3月号)。椹木の「絵画の体験は、僕ら個々、身体の側にあって、火事場で救うべきは物などではなく、この身体なのだ」という比喩のおかしさは、「身体」も絵画と同じく、「…

椹木野衣「地質活動期の美術」(『文學界』2012年3月号)

椹木はここで戦後の日本の復興を支えていたのは、日本人の勤勉さでも、日米同盟でもなく、これまで「静穏であったがために見えなかった、地質学的な条件」によるものであったとして、これまで使われていた「戦後」という歴史区分の失効を宣言し、新たに地質…

船戸与一『蝦夷地別件』(全3巻/新潮文庫)

1789年に国後・目梨で起きたアイヌの蜂起を題材とした歴史小説。とにかく面白いのだが、驚かされるのはマホウスキーというポーランド人貴族が登場することで、蝦夷の辺地で起こる出来事が世界史とリンクしていることである。マウスキーの役割は、祖国ポーラ…

『美術手帳』(2012.2月号)

『美術手帳』(2012.2月号)の「松井冬子」特集記事。この人に欠けていると思われるもの、宗教的感受性。宗教的感性がない人が、腐乱した死体を、どんなに克明に描いてみせても標本図にしかならない。たとえば日本語では死体のことを「なきがら」ともいうが…

『美術手帳』(2012年1月号)村上隆インタヴュー記事(2)。この人の不思議あるいは、特徴は父親的なものに対する懐疑のなさ。なぜか大人になっても父親の言葉に実証的分析が加えられない。例えば、ここでは父親の言葉として、「いや、日本もやったんだ。一…

『美術手帳』(2012年1月号)

『美術手帳』(2012年1月号)の村上隆インタヴュー記事。村上はここで福沢諭吉の「一身の独立なくして一国の独立なし」という言葉を引き合いにしながら、人が依拠する「国」というフレームの有無、明確さが日本と欧米の「アート」の力の差であるとして、戦後…