『美術手帳』(2012.2月号)

『美術手帳』(2012.2月号)の「松井冬子」特集記事。この人に欠けていると思われるもの、宗教的感受性。宗教的感性がない人が、腐乱した死体を、どんなに克明に描いてみせても標本図にしかならない。たとえば日本語では死体のことを「なきがら」ともいうが、それは「たま」(魂)が「から」(体)から抜けてしまうという、霊肉分離の二元論が、日本人の死生観の根底にあるから。しかし、この人の興味の対象は「たま」の行き先ではなく、残された「から」の方。「霊」という不可視、不可知なものでなく、「肉」という可視的、可知的なものが選択され、臓腑までが可視的なものとして描かれる。

それは徹底的に物資的であるのだが、そこに「肉」の美は見られない。この眼に見えぬものでなく、見えるものという選択は、松井だけではなく、日本の近代美術の特徴でもある。たとえば西欧では物質主義の批判は、「霊性」への回帰を意味するが、日本では肉体も物質であるという意識が希薄なので、人間性の回復や、自然への回帰といったものが物質主義の批判として語られてしまう。これは西欧から近代を受容するにあたって、宗教(キリスト教)の存在を無視した為。日本の近代美術に象徴主義的な作品が極端に少ない理由はここにある。

ところで日本で「幽霊」が視覚化されたのは、江戸時代の円山応挙がはじめとされるが、その背景には宗教の世俗化がある。今日の幽霊像を形作っているのは、江戸時代の怪談文化であると言われるが、江戸の怪談文化で重要なのは、好奇心旺盛な近世の知識人たちによって支えられていたこと。つまり、この世の不思議に如何に合理的な解釈を与えることが出来るかということが目的とされていたのである。江戸時代は宗教(仏教)ではなく、倫理(儒教)の時代であったので、この世の不思議に解釈を与えるというのは仏教に対する攻撃でもあった。

視覚化された幽霊は大衆化し、庶民の一大娯楽となるが、娯楽になればなるほど、怪異的なものに対する恐ろしさは後退して、人間の恐ろしさが前景化して来ることになる。ところが時代が江戸から明治に変わると、幽霊の存在自体が語り難いものとなる。そこで困った三遊亭円朝が幽霊を「神経病としての幽霊」(『真景累ヶ淵』)として語ってみせたのは有名な話であるが、円朝と同じように松井もここで幽霊を「心理的状態」「強迫観念」と語ってみせるのだが、興味深いのは幽霊だけでなく、絵画も「神経病」のように語っていることである。

ここでは絵画に「ナルシシズム」や「ジェンダー」といった意味が与えられている。自己の来歴から作品の自己分析がなされ、それが何を意味するのかという説明が丁寧に行われるのだが、分析・分類が可能だということは、そこには非合理なもの不可解なものがないということである。ちょうど近世の合理主義者たちがこの世の不思議に意味を与えたように、作品に意味が与えられ不可解なものが排除されるのだが、先に述べたように幽霊や怪談というのは、この世の不思議に合理的な意味を与える行為の中で生まれてきたものであるので、そこで語られていたのは不可視、不可知なものに対する恐ろしさではない。

そこで明らかにされたのは人間存在の恐ろしさである。それは例えば「死」という、人間には絶対に知ることが出来ない不可知なものに対する恐ろしさとは、全く違う恐ろしさであった。なぜ円朝が幽霊の正体を「神経病」と種明かししてみせながら、「めぐる因果の恐ろしさ」を語ることに成功したのかといえば、円朝において大事なのは幽霊という不可解、この世の不思議を語ることではなく、人間の恐ろしさを「めぐる因果の恐ろしさ」の中で語ることであったからである。しかし幽霊を「心理状態」「脅迫観念」と語る松井に、円朝のような凄み恐ろしさは感じない。

なぜ恐ろしくないのかと言えば、意味づけに終始しているからである。「臓器」は何を意味しています。「嘔吐物」は何を意味していますと、絵画を「神経病」として語ってみても、それは不可解なものを排除する意味づけに終始しているだけである。しかし恐ろしくないのと見世物としては成立しないので、お化け屋敷やホラー映画の宣伝記事のように、「臓器」や「幽霊」という仕掛けがセンセーショナルものとして取り上げられることになる。