書評

『美術手帳』(2012.10月号)特集「超絶技巧!!」

NHK出版による本かと思うほど、ここ最近のNHKのテレビ番組(「日曜美術館」など)と内容が重なる特集記事であるのだけれど、山下祐二の「この日本には、時流やマーケットの動向なんてものとはさらさら関係なく、ただひたすら、修行僧のように、自らの技巧を…

村上隆×椹木野衣「アート憂国放談」(『芸術新潮』2012.5月号)

村上隆について。確か、以前は近代化以前の日本の美術には「ヒエラルキー構造はない」と発言していたと思うのですが、今度は一転して、「日本の歴史において芸能、芸術の徒は非人であり、人ではないものに分類されているにもかかわらず、人間としてのアイデ…

永瀬恭一「脱美学―ブロークンモダンの諸相」(『組立−作品を登る』)

「批評がない」という定型句に対して、「批評はあるけれども構造に従属している」のが現状だという分析と考察は鋭い。おそらく、この論考を通して著者が読者に求めているのは、現状に対する認識の問い直しだけではなく、批評を十分に機能させない「構造」を…

境澤邦泰「絵画と視線の行方」(『組立−作品を登る』)

絵画の平面性とテーブルの平面性の関係が、画家の視点から分かりやすく書かれているという点に於いて、非常に優れた文章、論考であると思うのだが、ただ一点だけ、「床面」についての件には少し物足りなさを感じる。床は、ただ足の裏で踏まれるだけの場なの…

椹木野衣「五百羅漢とは誰か」(『美術手帳』2012.4月号)

カタールまで村上隆の個展を見に行っているのは凄いことだと思うが、肝心の作品については、ほとんど何も語られていない。何故、語られるのが「作品」ではなく「作家」なのか。観者が求めるのは「作品」と対峙することであって、「作家」と対峙することでは…

椹木野衣「地質活動期の美術」(『文學界』2012年3月号)

椹木はここで戦後の日本の復興を支えていたのは、日本人の勤勉さでも、日米同盟でもなく、これまで「静穏であったがために見えなかった、地質学的な条件」によるものであったとして、これまで使われていた「戦後」という歴史区分の失効を宣言し、新たに地質…

船戸与一『蝦夷地別件』(全3巻/新潮文庫)

1789年に国後・目梨で起きたアイヌの蜂起を題材とした歴史小説。とにかく面白いのだが、驚かされるのはマホウスキーというポーランド人貴族が登場することで、蝦夷の辺地で起こる出来事が世界史とリンクしていることである。マウスキーの役割は、祖国ポーラ…

『美術手帳』(2012.2月号)

『美術手帳』(2012.2月号)の「松井冬子」特集記事。この人に欠けていると思われるもの、宗教的感受性。宗教的感性がない人が、腐乱した死体を、どんなに克明に描いてみせても標本図にしかならない。たとえば日本語では死体のことを「なきがら」ともいうが…

『美術手帳』(2012年1月号)

『美術手帳』(2012年1月号)の村上隆インタヴュー記事。村上はここで福沢諭吉の「一身の独立なくして一国の独立なし」という言葉を引き合いにしながら、人が依拠する「国」というフレームの有無、明確さが日本と欧米の「アート」の力の差であるとして、戦後…

中村和雄「引込線と現代美術」(『所沢ビエンナーレ美術展2011カタログ』)

「引込線」という展覧会タイトルから、作家の活動には少なからず「ひきこもり」的要素があることが指摘され、そこから昨今の美術界の商業主義の流れに対しての警鐘が語られているのだけれど、好感を覚えるのは社会から隔絶してひきこもるという行為の葛藤、…

『芸術新潮』(2011.9号)

『芸術新潮』の最新号に、「ニッポンの「かわいい」はにわからハローキティまで」という特集が組まれているが、ハローキティが、世界的に人気があるキャラクターであることを理由に、美術史を単純化して、「かわいい」というのが、古来より不変にある日本の…

『美術手帳』(2011年3号)

岡本太郎と「共同体」『美術手帳』の最新号に岡本太郎の特集が組まれていて、そこで研究者と称する人たちがいろいろと語っているのですけれど、本来なら率先して岡本の作品なり思想を批判の対象としなければならない研究者たちが、岡本の作品を批判の対象と…

松井みどり「土の感触、想像力の目覚め」(2)

このテクストから時間(歴史)が排除されているのは、「構造主義」の影響が少なからずあるからだと思われるのだが、問題なのは、そこに「文化」(合理主義)に対する「自然」という幼児的な対比関係しか見られないということである。ここでは自然物を人格化…

松井みどり「土の感触、想像力の目覚め」(美術手帖2010.7月号)

『美術手帖』(2010年7月号)に掲載されている松井みどりの「土の感触、想像力の目覚め」について。奈良美智の作品について論じているようなのだけれど、「霊性」という言葉が多用されている割に、それがどういう定義で使われているのかが曖昧である。一般的…

『奇想の系譜』(2)

『奇想の系譜』に登場する画家たちが活躍した江戸時代というのは、狩野永徳をトップにしたヒエラルキー構造が美術の世界にある時代なのですが、この永徳を画聖とする封建的ヒエラルキー構造というのは、狩野派が、徳川幕府という「世俗」の政治権力と一体で…

辻惟雄『奇想の系譜』(1)

辻惟雄の『奇想の系譜』について少し考えてみたいと思います。まず気になるのは、「奇想」という概念の曖昧さです。ここでは岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長澤蘆雪、歌川国芳の6人が「奇想」という言葉で一括りに包括されていますが、ここで…

辻惟雄「絵難房 超辛口評論家」(『芸術新潮』2010.3号)

『芸術新潮』の「辻惟雄×村上隆 ニッポン絵合せ」というコーナーで、辻惟雄が『古今著聞集』から「絵難房」という、どんな絵にも必ずケチをつける男の説話を取り上げて、最近の批評家はみんな大人しいが、村上隆のスーパーフラットを「空気の抜けたパンク・…

椹木野衣『「私」という贈与』

『美術手帖』(2010.3号)に掲載されている、椹木野衣による森村泰昌についてのテキストについて。ここで椹木は、森村泰昌を日本の現代美術における「異人」と規定することで(「彼はあきらかに異人だった」)、そこから、そもそも日本の美術自体が「西洋美…

「国際展の現在」

情報に疎いので、『REAR』という芸術批評誌の最新号(no.21)を見るまで知らなかったのですが、2010年に愛知で「あいちトリエンナーレ」なるものが開催されるらしく、『REAR』の誌上で芸術監督を務める建畠哲を囲んで、三田晴夫、岡部あおみ、福住廉、による…

村上春樹『1Q84』(2)

Book2「第11章(青豆)均衡そのものが善なのだ」を読むこの章で下敷きにされているのは「マタイ伝第4章」である。もっと厳密に言えばドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で、イヴァン・カラマーゾフに語らせた「大審問官」であるのだが、ここで重…

村上春樹『1Q84』

『1Q84』というタイトルは、ジョージ・オーウェルの『1984』を連想させるタイトルである。しかし、ここで意識されているのは、ジョージ・オーウェルよりも、ドストエフスキーであり。目指されているのはドストエフスキー的世界を形而下の世界で物語る…