『美術手帳』(2011年3号)

岡本太郎と「共同体」

『美術手帳』の最新号に岡本太郎の特集が組まれていて、そこで研究者と称する人たちがいろいろと語っているのですけれど、本来なら率先して岡本の作品なり思想を批判の対象としなければならない研究者たちが、岡本の作品を批判の対象とするのではなく、岡本を批判あるいは無視した美術界を、「大衆」との距離の遠さから批判の対象としているのは不可解です。ここでは「大衆」との距離をもって、岡本を批判し無視した美術界は閉鎖的で保守的であるが、メディア等を活用して「大衆」と近い距離にいた岡本は先進的と見なされているようなのですが、なぜ岡本を語るものさしが、作品でも思想でもなく、「大衆」との距離なのでしょうか。

確かに岡本太郎は「共同体」を前提とした作家です。『太陽の塔』など岡本には数多くのパブリック作品があることはよく知られていますし、岡本の作品なり思想を理解するには、「共同体」を前提にしなければならない必要性が高いので、作品ではなく、岡本太郎を語ることを主眼とするならば、必ずしも作品は語る必要はないのかも知れません。しかし美術の領域で岡本を語るのに、作品を前提としないというのは、些か体裁が悪い話となります。そこで岡本の作家としての特異性が、「大衆」(共同体)との距離から強調される事になるのだと思うのですが、なぜ岡本の特異性を語るときに、「大衆」との距離という、「共同体」を前提にした基準が持ち出されるのでしょうか。

おそらくそれは「芸術は爆発だ!」という言葉に代表されるように、岡本には既成の概念に挑む破壊者というイメージが一般にも広く定着しているので、実際は「世間」をちょっと騒がせた程度のものでしかないものでも、過大に評価し易いからだと思います。実際、岡本を評価しようとする人たちには、こうした岡本のイメージに乗っかる人が多く。共同体に対するリアクションを、何が何でも既成の概念に対する挑戦と理解、評価する傾向が見られます。そこでは作品が、美術史の文脈ではなく、共同体のリアクションから、つまり「分からない」あるいは「感動した」等の反応から(「分からない」といったような拒絶的な反応の場合は既成の概念を破る作品として、「感動した」といったような肯定的な反応の場合は大衆の近さの証として)、理解・評価されることになるのですが、そうした理解・評価が、最終的には岡本太郎の個性に帰されていることは重要です。

何故なら、誰もが知るように岡本太郎は強烈な個性の持ち主でした。しかし個性的な人間というのは、個人主義が認められない封建主義の時代であろうと、いつ如何なる時代にもいるのであって、それは必ずしも個人のために社会がある、あるいは下が上を支えるとする、近代的な共同体に立脚したものであるとは言えないからです。つまり、もし仮に多くの人が岡本太郎の作品ではなく、その強烈な個性に魅力を感じているとしたら、それは私たちの住む社会が近代的な個人主義が確立されていない社会であるがゆえに、憧れる時代に制約されない個性であるのかも知れないということです。

しかし岡本を美術の領域で持ち上げようとする人たちは、共同体との関係性からしか岡本を評価することが出来ないのに、岡本の強烈な個性を見ることで、岡本が前提とする共同体が何であるかを見ようとしません。時代に制約されない個性を見て、それを既成の概念に対する挑戦だとありがたがってみても、個人のために社会があるといった社会は訪れないのですが、そうしたことは全く問題とされないのです。なぜ問題にされないのかというと、まず何よりも「作品」そのものを語るよりも、作品を岡本の「個性」に帰して語る方が圧倒的に楽だからです。それにいくら共同体との関係性からしか岡本を語れないといっても、それを問題の焦点としてしまうと、ますます作品について語れなくなるというジレンマが生まれるからです。

そうした意味でいうと、はじめから作品を度外視して、ストレートに共同体との関係性を問題とすることが出来る民俗学の方が、岡本を研究の対象とするには向いています。もっとも民俗学の方にも、岡本太郎知名度が高すぎるからなのか、無批判に岡本の作品は素晴らしいという前提がありすぎるという問題点はありますが、共同体との関係性からし岡本太郎を語ることが出来ないのに、最終的にはそれを岡本の個性において理解しようとしている美術界よりも、はじめから日本という共同体に回収して理解しようとしている民俗学の方が、岡本の研究においては進んでいるのが現状です。