2010-01-01から1年間の記事一覧
ドガの絵画を見ていると、人物と床面の関係に違和感を覚えることが多い。ドガの絵画では、床面に対する視点が人物に対する視点よりも高い、全体を俯瞰するような位置に設定されていることが多いので、どうしても人物が床の上にしっかりと立っているように見…
ドガの『障害競馬−落馬した騎手』は、仰向けに倒れる人物(落馬した騎手)と馬という組み合わせから、どことなくカラヴァッジョの『パウロの回心』を彷彿させる作品である。もっともカラヴァッジョの『パウロの回心』が、天からの啓示という劇的な瞬間を描い…
ゴッホの『緑の葡萄畑』は、まるでテーブルの上に置かれたじゃがいもを描くかのように(『籠一杯のじゃがいも』)、大地が上から見下ろされ、絵の具がキャンバスの上に置かれている。おそらく無意識的にテーブルとタブローが同義語なものであるという理解が…
萩原碌山の『坑夫』と『労働者』には驚きがある。これらの作品にみられる大胆な決断、つまり「断片化」された人体というのは、人体をプロポーションするという思想がなければ下せない判断である。そこには多くの日本人が直面した西欧との肉体的な差異という…
善光寺界隈にある松葉屋家具で開催中の『大地と空、火と草色、秋のギャッベ展』について。GABBEH(ギャッベ)は、イランの遊牧民、カシュガイ族の絨毯のことであるのだけれど、2年ほど前にこの会場で始めて眼にした時には思わず北欧あたりのデザインかなと…
無人島プロダクションで開催中の風間サチコの展覧会について。大作が多い風間の展覧会としては、小さなサイズの作品で纏めた感じがする展覧会であったが、ウィットに富んだ独特の風刺画には、随所に風間ならではの鋭い批判精神が見られる。以前から、風間の…
SARP(仙台アーティスト・ランプレイス)で開催されていた「高山登」展について。オープニングで、作家本人と話す機会が少しあったのだけれど、印象的だったのは「幾何学」を使って思考しているということをはっきりと明言されていたこと。日本の場合、情緒…
このテクストから時間(歴史)が排除されているのは、「構造主義」の影響が少なからずあるからだと思われるのだが、問題なのは、そこに「文化」(合理主義)に対する「自然」という幼児的な対比関係しか見られないということである。ここでは自然物を人格化…
『美術手帖』(2010年7月号)に掲載されている松井みどりの「土の感触、想像力の目覚め」について。奈良美智の作品について論じているようなのだけれど、「霊性」という言葉が多用されている割に、それがどういう定義で使われているのかが曖昧である。一般的…
『PARFUM』という香水の専門雑誌(154号)に、随筆を書かせてもらいました。記事が掲載される雑誌が夏号ということでしたので、昨年の初夏に訪れたシチリア島のチェファルーという町で見た地中海を念頭にした文章を書かせてもらったのですが、チェファル…
宮城県立美術館で開催されていた展覧会は、おそらくピカソの作品がもっとも多く出品されていたことと、ピカソという名前の知名度(集客力)から「ピカソと20世紀美術の巨匠たち」という展覧会名であったと思うのだけれど、ピカソの絵画において重要なのは、…
会場入口の部屋に、ドランとヴラマンクとマティスの作品が、それぞれ順に並んで展示されていたのだけれど、それが深い緑、沈んだ青、鮮やかな赤、という感じの流れで纏まっていて、とても見やすい展示順になっていた。あとでよくよく考えてみたら、「野獣派…
『奇想の系譜』に登場する画家たちが活躍した江戸時代というのは、狩野永徳をトップにしたヒエラルキー構造が美術の世界にある時代なのですが、この永徳を画聖とする封建的ヒエラルキー構造というのは、狩野派が、徳川幕府という「世俗」の政治権力と一体で…
辻惟雄の『奇想の系譜』について少し考えてみたいと思います。まず気になるのは、「奇想」という概念の曖昧さです。ここでは岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長澤蘆雪、歌川国芳の6人が「奇想」という言葉で一括りに包括されていますが、ここで…
『芸術新潮』の「辻惟雄×村上隆 ニッポン絵合せ」というコーナーで、辻惟雄が『古今著聞集』から「絵難房」という、どんな絵にも必ずケチをつける男の説話を取り上げて、最近の批評家はみんな大人しいが、村上隆のスーパーフラットを「空気の抜けたパンク・…
『美術手帖』(2010.3号)に掲載されている、椹木野衣による森村泰昌についてのテキストについて。ここで椹木は、森村泰昌を日本の現代美術における「異人」と規定することで(「彼はあきらかに異人だった」)、そこから、そもそも日本の美術自体が「西洋美…
美術手帖の最新号(2010.3号)で、「森村泰昌」の特集記事が組まれている。そこで斉藤環という精神科医が「みずから擬態してみないことには、決してわからないプロセスがというものが確かに存在するのだ」と述べて、「擬態批評」ということを言っているの…
気になったのは、キャンヴァスの白地に対する意識のなさである。それは正確にいうと、白地に対する意識のなさというよりも、平面の持つイリュージョン性に対する拒否であると思うのだが、ここではロウ・キャンヴァスが使用されているにも関わらず、色彩とキ…
天井から逆さに吊るされたグランド・ピアノの存在が、まず目を引くのだけれど、それは目線を上に上げはするが、バロックの様な上方に突き抜けていく視線ではなく、どちらかと言えば上方に圧迫感を覚えさせるものであって、強調されているのは上部構造の不在…
高山の「枕木」には、「木」という素材が持つ温もり、あるいは手触り感といったものが見られない。高山のタールの染み込んだ「枕木」に見られるのは、「木」という素材に対して示される親近感の拒絶である。この拒絶は、「木」という素材にタールを染み込ま…