特集展示「岡崎乾二郎」/東京都現代美術館

気になったのは、キャンヴァスの白地に対する意識のなさである。それは正確にいうと、白地に対する意識のなさというよりも、平面の持つイリュージョン性に対する拒否であると思うのだが、ここではロウ・キャンヴァスが使用されているにも関わらず、色彩とキャンヴァスを同一視させる染みではなく、厚く盛り上げられた絵具によって、メディウム(絵具)とキャンヴァスとの乖離が強調されている。

こうした平面性に対する拒絶は、キャンヴァスと壁面の間に、木の板を挟み込む仕掛けに確認出来るものであって、そこでは観者が、キャンヴァスの裏に取り付けられた木の台座の存在に気づき、そこに視線を向けると、画面全体の統一的なイメージが把握出来なくなってしまう仕組みがある。

たとえば小品に見られるコントロールされたタッチは、反復・パターンを前提としているが、それらは画面を支えているわけでも、何かを指示しているものでもないので、そこに明確なシステムを読み取ることは難しい。それらは(作品タイトルがそうであるように)センテンスの羅列であって、それらを一つの全体として見るには、会場に展示されていた建築模型を見るような視線(つまり神のごとき視線)が、必要とされる。

しかし当然ながら、そのような視線を手に入れることなど不可能であるので、ここでは反復性が前提とされた作品が展示されているが、観者の視線が散ることがない。ここで視線が捉えるのは、絵具の物質性だけであって、それは色彩が用いられているというよりも、絵具が消費されていると表現するべきものである。

白地の意識のなさからも分かるように、ここには絵画空間と呼べるものがないのだが(あるいは拒否されている)、指摘して置きたいのは、ここに見られる色彩には、光がないということである。光に対する経験のなさが、絵具を色彩彫刻の様に物質的に使用することを強いているのか、それとも色彩彫刻の延長線上で、自覚的に絵具が物質として扱われているのかは分からないが、ここでは彫刻と絵画の分化が、未分化の状態で提示さている。
果たして、絵画的でないものが目指されているのか、それとも絵画でないものを絵画と詐称しているのか。私には分からない。ただ「これは絵画なのか」と問われれば、私は「これは絵画でない」と答えると思う。