森村泰昌(メモ)

美術手帖の最新号(2010.3号)で、「森村泰昌」の特集記事が組まれている。そこで斉藤環という精神科医が「みずから擬態してみないことには、決してわからないプロセスがというものが確かに存在するのだ」と述べて、「擬態批評」ということを言っているのだけれど、森村の作品の特徴というのは、森村が美術史や歴史上の人物を追体験するプロセスにあるのではなく、詳細に再現された細部と、意図的に差異化された細分を担保とすることで、自身が、ゴッホ三島由紀夫に成りきる(あるいは成り代わる)ことを保証しているところにあるのであるから、注意すべきは、「プロセス」ではなく、「細部性」ではないか。

実際、森村の作品に対するキャプションの殆どが、いかにそれが緻密に再現された「細部」であるかというフォロー記事でしかなく、作家の自作に対するコメントも「細部」の再現性に終始している。ここで問題となるのは、画面を構成する「細部」を担保にして、何が語られるかということであるのだが、たとえば「なにものかへのレクイエム」というシリーズでは20世紀の検証が試みられているが、報道写真をもとにして再現されているのが、三島自決や浅沼稲次郎刺殺といった事件に接した森村のファースト・インパクトの再現でしかないとしたら、どんなに緻密に画面を構成する細部を再現してみせても、それは事件(歴史)を構成する細部ではないのであって、観者が、それらの作品を前にして、歴史や歴史の暗部と直面することはないだろう。

当然ながら、ここには森村が見出す「名もなき人々」とは、画面を構成する「細部」ではないのかという疑問があるのだが、細部として見出された「名もなき人々」を担保にして歴史(あるいは美術史)を語ってみせても、そんなところには「歴史」や「美術史」に対する「批評」などないだろう。