レベッカ・ホルン「静かな叛乱 鴉と鯨の対話」/東京都現代美術館

天井から逆さに吊るされたグランド・ピアノの存在が、まず目を引くのだけれど、それは目線を上に上げはするが、バロックの様な上方に突き抜けていく視線ではなく、どちらかと言えば上方に圧迫感を覚えさせるものであって、強調されているのは上部構造の不在による下降性であると思われる。

上部構造の不在というのは、たとえば床面に置かれた黒い水に、対角線上からプロジェクターの光源を当てて、立面(壁面)に文字や水紋を投影するといったインスタレーション作品を見てみると、立面と床面の間には90度の投影関係はあるが、天井と床面の間には上下の投影関係が見られないということである。

特に、円形の器に黒い水がみたされた作品では、本来ならそれは上方にあるはずの円蓋の存在を示唆するものであるはずであるのに、黒い水によって、ドームからの上下の投影関係が拒否されているので、観者の視線は、立面と床面の間にある90度の投影関係の間は往復するが、床面が拒否している上方には向かわない。

レベッカ・ホルンの作品の特徴としては、もう一つ、観者が作品の前でかなり受動的に待たされるという特徴があげられると思うのだが、ここで重要なのは、そこでは時間というものが、視覚に遅れてやってくるということである。しかも大半の作品の仕掛けが、予想可能な範囲内の動きしかしないものなので、見ても見なくても大した差異はないものばかりであるので、ここで観者が、作品を前にして「待つ」という行為を選択するには、それが予想可能な範囲内の動きであっても(つまり「始まり」と「終わり」を既に知っていたとしても)、何かした「期待」させるものが必要とされる。

そこでグランド・ピアノの様な作品が必要とされてくるのだと思うのだが、ここで問題となるのは、この時、観者が体験する時間意識とは、絵画や彫刻、あるい音楽を前にしたときに体験する時間意識、つまり作品が制作された瞬間を追体験するような時間意識とは、おそらく違うものだろうということである。