高山登 展「300本の枕木―呼吸する空間」/宮城県美術館


高山の「枕木」には、「木」という素材が持つ温もり、あるいは手触り感といったものが見られない。高山のタールの染み込んだ「枕木」に見られるのは、「木」という素材に対して示される親近感の拒絶である。この拒絶は、「木」という素材にタールを染み込ませることによってもたらされているものなのだが、特徴的なのは、タールによって色彩性が拒否されることで、触覚性だけでなく、視覚性も、同時に否定されていることである。

タールの黒は素材から物質性を剥奪することに成功している。しかしそれは同時に、触覚性だけでなく視覚性も奪ってしまうものであるので、観者は、どんなに作品に近づいてみても(あるいは離れてみても)、作品を捉える手掛かりとなる触覚性と視覚性を得ることが出来ない。そこで必要とされるのが作品を構成する秩序であるのだが、ここには「質料」(素材)と「形相」の関係から、「枕木」というのは、それ自体だけでは作品として成立し得ないという問題がある。

この問題とは、たとえば高山は、基本的に自身の手によって「枕木」を作っているというが(例外的に使用済枕木を使うこともあるらしい)、「枕木」というのは、原理的に言えばそれは既成品でもよいものであるので、作家が、素材となる木の塊から一本の枕木を作り出す行為だけを指して、それを作品と呼ぶことは難しいということである。つまり使用済枕木を高山の作品に転用出来ることが可能だと言う事は、原理的には高山の枕木を鉄道施設の枕木として転用することも可能だということであるので、ここでは「枕木の制作=作品の制作」という図式は成立しないということである。

ここで枕木が作品として成立するには、鉄道施設として使われる枕木とは違う、他の秩序が必要である。しかし言う迄もないが、高山が、アジアを侵略した日本の鉄道施設を念頭に枕木を作品として制作する時に求められているのは、秩序の不在ではなく、より高次で洗練された秩序の存在であるので(「日常」「非日常」の関係に置き換えて言えば、「非日常」というのは、単なる「日常」の否定から成り立っている訳でないということである)、「鉄道」という近代を体現する高度な秩序を有するものに対して、どのような秩序を提示することが問題となる。

高山の過去の経歴を振り返ってみると、概ねこうした問題は、作品が展示されるスペースとなる建築物に枕木を45度に立てかけることで、建築物を構成する秩序に依拠・関係することで解決されてきたと言うことが出来ると思う。しかし今回の展覧会では、建築物との「関係性」が極力回避されており、建築との「関係性」から枕木を作品として構成していく秩序を構築していくのではなく、美術館という空間をキャンバスに見立てて、枕木が設置構成されている。

たとえば中庭やエントランスに設置された作品というのは、明らかに階段や屋上からの視線を前提とした作品であるので、非常に絵画的な作品ということが出来るものである。しかし、それらの作品は、確か上から眺めることが出来れば平面的(絵画的)であるかも知れないが、作品が設置されている同次元に立つと、散らばっているだけで、作品を統一的に構成する秩序が見当たらなく、視線は混乱するだけである。

ここで気になるのは、高山の作品では、確かに色彩は否定されているのだが、展示方法や空間の作り方を見ていると、それらが非常に色彩を前提としたような筆触・身振りとなっていることである。たとえば『のっぺらぼう』と題された無色のドローイング・シリーズに見られる筆触には、明らかに色彩を前提とした身振りが見られると思うのだが、それ以外のインスタレーション作品においても、高山の空間の作り方には、どこか色彩を前提とした痕跡がある。

実際、高山の作品には、色彩は使用されてはいないが、クレオソートの臭いや、スピーカーから流れてくる音楽といった様に、色彩の代用となりうるものを感覚的に用いて空間を構成している特徴が見られるのだが(今回の展示されていた作品の中には、ピアノが設置されて視覚的にも音楽を感じさせるものもあった)、そこには彼の作品を取り巻く言説との隔たりがある。高山の作品を巡る言説に禁欲的なものが多い理由としては、作家自身の問題意識から、そうした発言が多いという事が要因の一つとしてあげられるのだが、果たして、本当にそうなのだろうか。

確かに、個々の枕木を見れば、木という素材から高山は物質性を剥奪することに成功しているので、高山が言うところの「枕木」=「人柱」という図式を理解することは容易い。しかし高山の枕木とは、決して「沈黙」を要求するものでなく、賑やかで、騒がしい、枕木である。彼の枕木は、お喋りである。もちろん、それを死者たちの声と解釈することも可能だろう。

しかし高山が、枕木を作品として制作する時に出会う抵抗とは、木という素材ではなく、枕木が有している秩序であるはずである。であるので、高山が、作品が展示される空間との「関係性」ではなく、床面を前提とした空間作りを優先していることには疑問を感じる。もちろん作家の心情として、展示されるスペースに依拠・関係しなければ成立しない作品よりも、それ自体において既に自立している作品を、という気持ちがあったとしても不思議はないし、枕木を45度に立て掛けるというパターンの反復から逃れたいという気持ちがあったとしても、不思議ではない。

思うに、ここに見られる「関係性」ではなく「自律性」へという転換には、少なからず作家が自身の手によって枕木を作っているということが影響しているのではないのか。何故なら、先に私は、高山が直面する抵抗とは素材の抵抗ではなく、枕木の有している秩序であると述べたが、高山自身は素材となる木の塊から枕木を作りだすたびに、その都度素材の抵抗と直面することになるからである。だが床面を前提とした空間構成は、秩序の不在でしかなく、重要なのは、素材を屈服させることではなく、あくまでもそれらにどの様な秩序を与えるかという決定の方である。

会場の二階の出口付近に、アンソニー・カロを彷彿させる作品が一点展示されていたが、一見すれば、確かにそれは床面を前提として、そこから自立的に立ち上げっている様に見える作品であった。しかしそこで確認出来るのは、皮肉なことに、鉄の代用として使われている木の素材性であって、それは枕木とは呼び難いものであった気がする。

最後に、今回の展覧会は、地方の美術館としては、異例なほど意欲的に現代美術を取り上げた展覧会であるので、多くの人に会場に足を運んでもらいたいと思います。