ドガ展/横浜美術館?

ドガの絵画を見ていると、人物と床面の関係に違和感を覚えることが多い。ドガの絵画では、床面に対する視点が人物に対する視点よりも高い、全体を俯瞰するような位置に設定されていることが多いので、どうしても人物が床の上にしっかりと立っているように見えないのである。極端な言い方をすれば、床がズレ落ちてしまっている訳であるが、このような人物と空間(床面)の混乱というのは、どこから来るものなのだろうか。

考えられる仮説の一つとして、ここではドガが「踊り子」をモチーフとしたことを挙げてみたい。ドガが踊り子や劇場の世界を絵画の主題として見出したのには、浮世絵の影響があると思われるのだが、ここで問題としたいのは踊り子の身振り・動作である。踊り子(バレリーナ)の動作・身振りというのは、舞台(空間)を前提としたものである。この空間との関係性を示す身体の身振りは、ドガ以前のたとえばドラクロワルーベンスの絵画には見られないものである。ドラクロワルーベンスの絵画では、人物の動きや躍動感は基本的に身体の捻じれによって示されるのだが、ドガの踊り子では身体の捻じれはほとんど見られない。あるのは手足の身振りだけである。身体の捻じれによって示されるのは、身体の内的な動きであるが、手足の身振りで示されるのは空間との関係性である。この両者の違いは、後者が前者より空間との関係性に強く拘束されるところにある。しかしドガの絵画では、人物が全体(空間)の一部として奉仕することが拒まれている。それは何故か。一つ考えられるのは、西欧の絵画の歴史の中には、肉体の自律とも言えるものがあることである。肉体の自律とはなにかというと、それは西欧の美術史というのは肉体表現の歴史でもあるということである。ここで重要なのは、ルネッサンス期に美術の主流が彫刻から絵画に移るにあたって、絵画に彫刻に劣らない肉体表現が強く求められたことである。

実際、ドラクロワルーベンスの描く人物の肉体には、絵画の一部でありながらも、それだけで成立することが可能な一つの自律した「美」がある。しかしドガが、モチーフとした踊り子の身体というのは、空間との関係性を前提とした身体であるので、肉体の自律した表現というものは歓迎されるものではなかったのではないだろうか。「肉体の自律」という観点から、ドガの絵画における人物と空間のズレを考察してみると、次のことが分かる。つまり空間との関係性を示す踊り子の身振りを積極的に絵画空間の関係として取り込むと、たとえばピカソの絵画がそうであるように、絵画の自律性が、絵画の平面化として進むということである。しかしドガには、ピカソの様にキャンバスの空間を踊り子が踊る舞台(空間)と見立てるような割り切りは見られない。そうした意味でいうと、ドガが選択したのは、絵画の自律ではなく、肉体の自律だったのかも知れない。ここで想起されるのは、踊り子に見らる空間との関係を示唆する手足の動作が、「浴女」シリーズにおいては、自身の身体を確かめる女の動作となっていることである。

踊り子(バレリーナ)の身体が、舞台上で不自然に重力を無視した動きを要求するのに対して、「浴女」の前かがみに自身の肉体を確認する動作は重力に忠実な動作である。そこにあるのは「肉体」だけである。女の自らの肉体を確かめようとする動作は、絵画の自律とは全く無縁なものであり、それは絵画や彫刻というジャンルさえ無効にするような肉体の主張である。しかし、この「肉体」というものほど、日本人に分かり難いものはないのかも知れない。日本人の肉体理解というのは、たとえば高村光太郎がそうであったように、自らの作品の貧弱さを、己の肉体の貧弱に結び付けて理解するという否定すべきものであって、それは積極的に語られるものではなかった。厄介なのは、肉体を語るかわりに、身体を行為として語るという理解しか生まれなかったことである。もちろん身体を行為として理解するというのは、モダニズムの流れに合致するものではある。しかし、そこには近代の創出神話として隠蔽された「肉体」というものが、西欧においては見直しの対象となり得るのに対して、日本においてはなり得ないという問題がある。日本では「肉体」というものが問題になりかけると「下手」という判断で、それが問題となりうるものだということが隠蔽されてしまうのだが、何よりも致命的なのは、肉体に対して「上手い」か「下手」という判断しか持っていないことである。