パレルモ 12月23日(木)

ホテルで朝食。気温20℃。12月とは思えない暖かさであるが、時折吹き荒れる強風がシチリアにも冬が到来していることを告げている。カステルヌオーヴォ広場からクワットロ・カンティまでバスで移動し、ヴィットリオ・エマヌエーレ大通りを徒歩で西に、大聖堂とヌオーヴァォ門を通り抜けて、ノルマン王宮近くにあるバス乗り場まで移動。モンレアーレに向かうバスは20分に一本あるとのことだが、今日は慢性的な交通渋滞に加え、クリスマス前の買出しで多くの人が街に繰出しているので、そこで40分近く待つことになる。クリスマスで賑わう街並みを車窓から眺めながら、やっとの思いで大渋滞を抜けると、街の騒々しさとは無縁な山の高台に辿り着くのだが、パレルモの街と海を見下ろすモンレアーレの大聖堂が、ノルマン建築の最高峰と呼ばれる由縁は、やはり内部のモザイク壁画にあるだろう。

教会の上部空間は、柱身と台座を除いて、全てがモザイクによって装飾されており。まさに「私は世の光である、私に従うものは闇の中を歩かず、命の光を持つ」という言葉を具現化した「光」の空間である。ただし、ゴシック建築のように重力の分散化に成功していないので(天井が木による架構式であって、石を積み上げた石積式でない)、モザイクの描かれている壁面は、量塊的で、重圧的である。描かれているのは『旧約』と『新約』の物語であるが、一際眼を引くのは後陣の半円蓋に描かれた「キリスト・パントクラトール」である。驚くのは、平らな壁面ではなく、半円蓋という歪んだ曲面に描かれているにもかかわらず、それが下から見上げても破綻無く描かれていることであるのだが、祭壇横の側廊からアプシスを見上げてみると、左手に書物を持ち、右手で祝福の仕種をするキリストの姿が、半円蓋の曲面を上手く利用して描かれていることが分かる。

ここではキリストのウェイブした髪の毛の曲線と、大きく広げられた両腕に羽織られた衣服の曲線が、半円蓋の曲面に逆らうことなく、リズミカルに描かれているので、キリストの他者(隣人)を包み込む仕種が、半円蓋の曲面の広がりと合致しており、大きな広がりのある動作として表現されている。注視すべきはキリストの差し出された「右手」である。このキリストの差し出された「右手」の意義というのは、隣人に対する「愛」という、キリスト教の本質を表すものであるのだが、これは「無私」の境地を目指す東洋的な世界では見られないものである。突厥かも知れないが、これはたとえば白隠などが描く「達磨図」と比較して見ると良く分かる問題で、どちらも胸像で、強い線で強調され衣服に身体を包んでいるが、一方が問題としているのは、捨て去らなければならない「私」で、もう一方が問題としているのは、隣人(他者)に対する「愛」であるという違いがある。

聖堂の外に出て回廊に向かうと、二柱一組で228本ある柱で構成された広い空間がある。全体と細部が見事に調和された回廊で、柱のモザイクと柱頭彫刻の多様さに驚かされる。モザイクのオリエンタルな装飾性と、柱頭彫刻のユニークな表現には見ていても飽きるものがないのだが、突然雨が降ってきたので、急いで帰り支度。バス停でバスを待っているとパレルモの街に大きな虹が架かっているのが見えた。トラットリアで遅めの昼食。イワシのパスタ。パスタの茹で具合と硬さが完璧。