ドガ展/横浜美術館?

ドガの『障害競馬−落馬した騎手』は、仰向けに倒れる人物(落馬した騎手)と馬という組み合わせから、どことなくカラヴァッジョの『パウロの回心』を彷彿させる作品である。もっともカラヴァッジョの『パウロの回心』が、天からの啓示という劇的な瞬間を描いた作品であるのに対して、ドガの『障害競馬−落馬した騎手』は、落馬という間抜けな瞬間を描いた作品であるという違いがある。つまり落馬というのは、確かに一瞬の出来事ではるが、それは歴史的出来事ではないということである。カラヴァッジョの『パウロの回心』では、画面上辺を占める馬と、画面下方を占める人物(パウロ)の間に、遠近法を駆使して複雑な空間が描かれているが(頭部を画面手前の方向に向け倒れているパウロの姿)、ドガの『障害競馬−落馬した騎手』では、馬と人物の関係が平行であるので、そこには『パウロの回心』に見られる様な、複雑な空間もなければ、啓示という主題の必然性も見られない。そこにあるのは「無関心」だけである。「無関心」が人物の上を通り過ぎていくのだが、それは偉大な歴史に見捨てられた人間の姿のようでもある。

ドガの歴史画に対する態度は複雑である。『バビロンを建設するセミラミス(下絵)』を見ても分かるように、古典に精通したドガには間違いなく偉大な歴史画を描くという野心があったはずである。しかし歴史画を描くには、ドガは遅れてきた世代に属していた。たとえば『アマチュア騎手のレース−出走前』に見られる騎手たちの色鮮やかな衣服には、ドラクロワの色使いを思わせるものがあるが、ドガの眼というのは、固定されたカメラであるので、それは眼の前の現実を観察するには適していても、歴史に思いを馳せるには適していない。それはドラクロワの様に自由に飛躍する眼でない。ドガには歴史画を描く上で必要な構想力が決定的に欠けていると思われるのだが、一言でいえばドガはレアリストであって、ロマンティストではないということであろうか。

重要なのは、ロマン主義が「いま」という時間を、「ここ」に空間化しながらも、「ここ」ではない「彼方」に思いをめぐらすものであるのに対して、ドガが見出した世界は「舞台」であり、しかもそこで描かれるのは、一般の観客が舞台上に求めるような虚構に飾られた華やかな世界ではなく、舞台裏や稽古場という生身の踊り子たちが生きる世界であったことである。もちろんドガの作品から浮世絵の影響を読み取ることは可能だろうが、そこには「旅」への誘惑も「異国」(オリエンタリズム)に対する誘惑も見られない。

驚かされるのは、『エトワール』や『ばら色の踊り子』のような舞台上で活躍する踊り子の姿を描いた作品でさえ、画面下からの照明に映し出される姿は酷悪であるということである。ドガの描く人物は決して理想化されていない。『メゾン・テリエ』の挿絵のような、ロートレックを思わせる放埓な作品がある一方で、『控え室の踊り子たち』のように純粋に形体を楽しんでいる作品もあるが、どちらかといえばドガのモデルに対する態度は冷淡である。もちろん『女性の肖像』のような鋭い洞察力を見せつける作品もあるし、この内面性とは無縁だと思われる画家にも、時折ではあるが薄塗りで素早く仕上げられた画面の中には、ムンクを彷彿させるものがあるということも見落とせないことであるが、それでも全体的にいえば、ドガにはモデルの内面に対する興味はなかったといえるだろう。

ドガの描く人物の特徴というのは、たとえば踊り子のように、一見大きな身振り動作をしているように見えるものでも、上半身には大きな捻りというものが見られないことである。手や足の身振りは非常に大きいのだけれど、ボディー(胴体)には大きな捻りや捻れは加えられていない。まるで胴体と手足が分節しているかのように、身体が表現されているのだけれど、これはそれまでのルーベンスドラクロワの絵画に見られるような、人体の動きや躍動感を身体の捻れで表現するものとは違う。ドガの絵画では手足の身振りによって動きが表現されているが、上半身は基本的に真直ぐの姿勢のままである。これは後にピカソが真似て取り入れている。ただ、ピカソの絵画では人物が画面を支えるという絵画的役割を与えられているが、ドガの絵画では人物にそのような役割は与えられていない。それはより彫刻的なものとして表現されていく。

ドガの初期のデッサン、『跪く女性の衣紋の習作』に見られる「襞」への関心というものは、踊り子をモチーフとしたデッサン。たとえば『靴を直す踊り子』の中にも確認することが出来る。しかしドガの「襞」への関心というのは、たとえば『舞台の袖の踊り子』を見ると、そこで主張されているのは最早スカートの膨らみではなく、それに呼応するかのように広げられた女性の両腕であり、肉感的な上半身の存在であることが分かるように徐々に失われていく。ドガの「襞」から「肉体」への移行が決定的となるのは、「浴女」を題材とした作品群であると思うが、驚くのは実際に制作された彫刻作品よりも、そこで制作された絵画やデッサンの方が、より彫刻的な作品であるということである。たとえば『水浴後、髪を乾かす女性』や『浴後』といった作品(デッサン)では、ロダンの彫刻作品かと思わせるほどの自由さで、大胆なデフォルメがなされており、特に身体を支える手足の量魂には圧倒される。ただ『浴後(身体を拭く裸婦)』に見られる不自然に伸びた女性の背中には、彫刻的なヴォリューム感は見られない。そこには後の、ピカソやベーコンの絵画に見られるようなデフォルメされた肉体があるのだが、彫刻的な表現は後退しており、絵画的(平面的)な処理がなされていると思われる。