『没後120年 ゴッホ展』/国立新美術館

ゴッホの『緑の葡萄畑』は、まるでテーブルの上に置かれたじゃがいもを描くかのように(『籠一杯のじゃがいも』)、大地が上から見下ろされ、絵の具がキャンバスの上に置かれている。おそらく無意識的にテーブルとタブローが同義語なものであるという理解がなされているのだろうが、『緑の葡萄畑』では描かれた対象(葡萄畑)が、何であるかが判別不能になるまでに、対象が色彩に還元されて描かれているので(描かれてというより、絵の具がキャンバスの上に乗せられているので)強烈な印象を与えている。テーブルとタブローの同義語的関係という観点からいうと、ゴッホの作品には、テーブルがあり、その上に事物が置かれていて、その背後に壁がある、といった静物画の組み合わせを応用したと思われる作品が多い。たとえば『ゴーギャンの椅子』を見ると、そこで描かれているのは、もちろん机の上に置かれた事物ではなく、床の上に置かれた事物(椅子)ではあるが、基本構造は静物画と同じである。さらにいえば、ここでは入れ子状に椅子の上に蝋燭と本が置かれて描かれている。

もちろん静物画的構造といっても、後景に空が描かれる風景画と、壁が描かれる静物画とでは、前者が前景において平面性が強調されるのに対して、後者は背景となる壁であるといった相違があるのだが、ゴッホの絵画では、視線が静物→室内→風景とロングショットしていっても、『じゃがいもを食べる人々』や『アルルの部屋』などの室内画にも見られる閉鎖性が、『サン=レミの療養院の庭』の閉じた庭にも見られるように、世界が修道院的な閉鎖空間として描かれている。ゴッホの絵画の不思議なところは、非常に激しいタッチで絵の具が厚塗りされているにもかかわらず、そこにはモネの絵画に見られるような筆触の喜びというものが感じられないことである。ゴッホの絵画に見られる過剰なタッチは色彩と一致していない。ゴッホの絵画に見られる過剰なタッチと色彩は、この世界を肯定的に見ることを拒んでいるものである。それは物質や五感に対する不信の表明であって、モネの絵画に見られるような物質や五感に対する肯定ではない。もっといえば、そこには明らかに理性に対する不安があるのだが、これはゴッホの経歴(牧師を目指し挫折した)や、オランダ時代の、たとえば『白い帽子を被った女の頭部』のような傑作に見られる、他者への深い眼差しを考えれば当然であろうか。

五感(あるいは知覚)に対する信頼性から、盲目性について積極的に語ったモネと、五感に対する不信から自らの耳を削ぎ落としたゴッホの相違というのは、モネの光に対するこだわりと、太陽の「光」を求めに南仏にやって来たのにもかかわらず、太陽の「光」から離れて修道院的な夜の世界を(蝋燭やランプといった人工的な光だけでなく星や月の光といった夜景画を)描いたゴッホの姿勢との比較からも窺える。日本では夜景画というものが、さほど珍しく感じられない(特に浮世絵では多く描かれている)ものなので分かり難いかも知れないが、ベーコンやデカルトの光学がそうであったように、「光」はメタファーでなく、「神の御業」として、人間の知解を可能とする神の「照明」(光)とされてきた西欧(キリスト教社会)において、「光」が、宗教的な制約から離れて描かれるというのは非常に新しい近代的な主題であるといえる。

しかしゴッホの描く「光」というのは、モネのような知覚のためのものではなく、オランダ時代から一貫して宗教的意味合いの強いものである。特に室内画に見られる蝋燭やランプにおいてそうなのだが、そうしたゴッホが太陽の光を離れて夜景を描くという行為には、信仰に生きることを望みながらも、そこから弾き出された者の屈折した影があると思われる。そもそも五感に対する信頼がないものが絵画に救いの光を求めるという行為自体が悲劇的なのである。もちろん、こうした解釈は作品理解としては陳腐なものである。しかし『サン=レミの療養院の庭』に見られる木々のヴォリュームや、『草むらの中の幹』に見られる幹の表現というのは理性に対する不安、葛藤といった陳腐な解釈を持ち出さなければ(一体どこから出てきたものなのかが分からない)理解し難いものである。