「高山登」展/SARP

SARP(仙台アーティスト・ランプレイス)で開催されていた「高山登」展について。オープニングで、作家本人と話す機会が少しあったのだけれど、印象的だったのは「幾何学」を使って思考しているということをはっきりと明言されていたこと。日本の場合、情緒を前提として制作している人が大半であると思うので、ちょっとこの発言には驚いた。ただ高山の作品に見られる「幾何学」というのは、西欧的の、たとえばルネサンスの遠近法の様に、不合理な世界(自然)を数学的に構造化して合理的に解釈していくものではなく、数学の持つ抽象的な性格を暴くようなものである気がする。

高山の用いる幾何学的方法というのは、合理的に世界を理解していくものではない。高山の作品では、合理的で等質的な空間が拒絶されているので、全体を統一する秩序というものが見当たらないのである。しかし、それは高山に「アジア」という観点から、ヨーロッパに対抗しようとする姿勢があるからではなく、「場」ということを起点にして、幾何学というものを用いているからだと思う。高山のいう「場」とは、アジアであったり、日本であったり、或いは作品が展示される空間のことであるのだが、彼が「遊殺」という言葉を用いて、「自分の作品は残らなくても良い」という時に想定されているのは、こうした「場」のことである。

実際、高山の作品というのは(インスタレーション作品が良い例だと思うが)、残らないことを前提としたものであるとおもうのだが、重要なのは「残らない」ということを、「場」(空間)を前提として考えるのではなく、どのような「時間意識」で考えるかではないのか。もちろん、ここでいう「時間」というのは、高山が否定する西欧的(キリスト教的)な時間意識のことであるのだが、時間の問題を抜きにして西欧に対する批判というものは成立しないと思われるので、高山にどうの様な時間意識があるのか、気になるところである。