松井みどり「土の感触、想像力の目覚め」(2)

このテクストから時間(歴史)が排除されているのは、「構造主義」の影響が少なからずあるからだと思われるのだが、問題なのは、そこに「文化」(合理主義)に対する「自然」という幼児的な対比関係しか見られないということである。ここでは自然物を人格化し身体と霊魂を不可分なものとするアニミズム的立場から(「身体と共存する霊的世界」)、精神と身体とを区分するデカルト的立場が、「世界の機械的合理化」として否定されているのだが、ここに見られる非デカルト的立場には、構造主義の「構造」とは、数学的思考によって求められる科学であるという理解が欠けていると思われる。

確かにデカルトの自然科学を媒介として、自然法則に支配される身体を精神の自由意志をもって機械的に支配しようする試みというのは、ルネサンスのユマニスムに連なる「良識」を前提とした自己完成であるので、身体の情念を規律する「良識」という前提が失われてしまえば、無制限に自然を支配しようとする高慢さが生まれてくるものである。しかし人間が自然から脱却して、人間と自然との関係を人間中心的な考えから相対的なものへと移行するには、理性をもって自然を客観的に認識判断するデカルト的方法が有効であったことも確かである。

合理的とは、理性的に認識し判断するということである。人間は自然から脱却することで、はじめて自然との関係を相対的なものであると認識するに至るのだが、それを可能としているのはデカルトが用いた科学的認識である。一般的に近代及び現代思想における非デカルト的立場というのは、そこで認識された「相対性」に立脚するものであると考えるのだが、このテクストでは形而上学だけでなく、デカルトが媒介とした自然哲学まで排除され、人間と自然との関係が未分化であるアニミズム的世界を対置すれば、それが西欧合理主義に対する批判となるという安易な理解がなされている。

何故、自然との関係が相対的な関係でなく、未分化な状態であることが望まれ、それが西欧や合理主義への批判とされるのか。合理主義とは、非合理な世界を前提に求められる合理的な方法であるが、ここで語られる神話とは、非合理性、不公平性を肯定することで語られるユートピアであって、それは世界の非合理性に対する回答ではない。それは幼児的としか言いようのない「原始回帰」「自然回帰」である。もちろん構造主義といのは、通時性ではなく、共時性を前提としたものであるので、それは基本的に反歴史主義的なものである。しかし、それは「原始回帰」「自然回帰」をもって、「西欧近代」に対抗しようとする幼児的な企てではないはずである。

ここで問題となるのは、「構造」か「歴史」か、ということであると思うのだが、美術作品に見られる「非連続性」というのは、明らかに通時性を前提としたものであるので、「今ここに」ということを、共時性をもって理解しようという試みというのは理解しがたいものである。もっとも歴史性を否定して、「今ここに」ということを重要視する日本の美術評論家や批評家に批評性がないのは、共時性を前提としたソシュール言語学に、正しいか、正しくないかを問う規範がないのと同じだからだと思えばよいのかも知れない。