「ピカソと20世紀美術の巨匠たち」展/宮城県立美術館

会場入口の部屋に、ドランとヴラマンクマティスの作品が、それぞれ順に並んで展示されていたのだけれど、それが深い緑、沈んだ青、鮮やかな赤、という感じの流れで纏まっていて、とても見やすい展示順になっていた。あとでよくよく考えてみたら、「野獣派」というカテゴリーで展示されていただけなのだけれど、ドランとヴラマンクの作品が、セザンヌ的要素がとても強い作品であったので、「野獣派」という共通項があることを完全に失念していた。

ドランの『サン・ポール・ド・ヴァンスの眺め』は(南仏の丘の上にある街並みというだけでセザンヌ的だ)、明るい陽射しがさす丘の上の街並みと、その下にある緑が覆い繁る大地が、前景を横切る道と両脇の樹木の間の中に描かれている。前景に描かれた右側の樹木の枝が三角形を強調する構図を作っているのだけれど(これまたセザンヌ的だ)、ヴォリューム感のある大きなタッチには、セザンヌにはない荒々しさが見られる。前景の樹木や遠景の空は左上から右下を意識した方向のタッチで荒々しく描かれているのに対して、中景は右肩上りに登っていく幾何学的な街並みの直線と、曲線を意識したタッチに単純化された木々で構成されている。全体的に肉厚な画面であるのだが、窮屈さを感じさせない絵となっている。

ヴラマンクの『花と果物のある静物』は、ドランと同じく(あるいはそれ以上に)セザンヌの影響下にある作品であるのだが、前に大きく傾いたようなテーブルという、セザンヌ静物画に特有の構図は確認出来るのだが、セザンヌのような規則的なタッチはなく、薄めた絵の具を思うがまま動かして背景の壁面を塗りつぶしたり、盛り上げた絵の具で花瓶の花が肉付されたりしているので、セザンヌのような堅固な絵画ではない。ただ画面を構成する骨格だけは残っているので、ドランの作品より、セザンヌの影響が強い作品に見えてしまう。

マティスの二つの小品は、残念ながらマティスの作品としては、あまり出来の良くない作品であったと思う。『腰掛ける少女』は、全体的にフォーヴ的な色彩で纏められているが、初期の筆触分割を思わせるタッチで肉付けがされた人物と衣服は固有色が使われていた。いただけないのは背景の緑の単調さなのだが、不思議なのは、センターライン上にある右腕と右肩の位置から考えると上半身は正面を向いていることになると思うのだが、頭の位置は、右足の上に左足を交差させて背もたれに寄りかかっている下半身の延長線上にあることである。右腕は組んだ両足と三角形を形成しているが、左腕は背もたれや椅子の足と一緒に寄りかかる身体を支えているので、肩幅が広くなっているのだが、頭の位置がどっち半端なので、作品サイズが小さいということもあるかも知れないが、画面に窮屈さを覚える。至る所にマティスらしい要素はあるのだが、マティスの最良の作品と比べると、確信的な線やタッチが見当たらないのである。もう一つの作品(『静物』)も、全体的にくすんだ色彩で、線に力強さがない作品であった。

ブラックの『グラス、ヴァイオリンと楽譜』は、楕円型のキャンバスに、キュビズムの手法で解体されたモチーフの再構成が、木炭ないし鉛筆の線でなされているのだけれど、注目すべきは、楕円型のキャンバスの中に、別の違う枠組みを主張する矩形が油絵具によって描かれていること。ここでは実際のモノが貼り付けられていたパピエ・コレの手法にかわって、油絵具が塗られ、さらにナイフでもって、前もってその場に描かれていた線を掘り出す作業がなされている。もちろんここにはだまし絵的な要素があるのだが、重要なのは、第二の支持体が画面上に作られていることである。こうした作業は平面に対する意識や、メディウムに対する意識の転換がなければ絶対になされないことである(たとえばクレーの『寝台』では、キャンバスを切り取り、板の上に張り付けることで、平面性とメディウムの主張がなされている)。

ブラックのもう一つの作品『水差し、レモン、コンポート』では、一本の長い線で、テーブルクロスの曲線やテーブルの直線が表されている。そこには『グラス、ヴァイオリンと楽譜』のような分析的キュビズムの作品に見られた、短い線がない。それらは絵の具の塗り残し部分や、ナイフで引っ掻いた線をつかって表現されている。つまり線と面の役割が分析的キュビズムの作品と逆転しているわけである。ただ、そこには『グラス、ヴァイオリンと楽譜』で見られたような、第二の支持体としての強さはない。ここで問題なのは、ブラックの作品にみられる効果とは、近視的なものではないかということである。たとえばステラの『色彩の迷宮』にも、ブラックと同じ意図的な塗り残しというのが確認出来るのだが、それを巨大なキャンバスに拡大して描いてみせても、そこには何ら絵画的な効果が認められないのである。単に、巨大な絵画を描くだけなら、単純に線に色彩が従属しているピカソの方が適しているといえるだろう。ピカソの絵が問題としているのは形相(線)だけである。

デ・キリコの『イタリアの広場』は、今回一番印象に残った作品である。一見するとベタな塗りで稚拙な感じがしなくもないのだが、定規で引かれたと思われるシャープな線が画面に効果的な緊張感を与えている。イエローオーカーの地面とバートアンバーの影が隣接する画面右下の三角形の影には、ちょっと未来派を思い起こさせる鋭角さがあって、赤、緑、青、が隣接するロバート・インディアナの『LOVE』には見られない、シャープさがあった。