辻惟雄『奇想の系譜』(1)


辻惟雄の『奇想の系譜』について少し考えてみたいと思います。まず気になるのは、「奇想」という概念の曖昧さです。ここでは岩佐又兵衛狩野山雪伊藤若冲曾我蕭白長澤蘆雪歌川国芳の6人が「奇想」という言葉で一括りに包括されていますが、ここでこの6人を一括りに包括する「奇想」とは、もちろん特定の様式概念のことではありません。強いて言えば、この6人には当時の主流である狩野派の枠組みの外側にいた面々という共通項はありますが、ここでは「江戸時代における表現主義的傾向の画家」「奇矯で幻想的なイメージの表出を特色とする画家」と言うぐらいの説明しかなされていません。もちろんこの程度の説明で、この6人を一括りに包括して、そこに系譜的連続性を見出すというのは、些か「曖昧」過ぎます。

では、なぜ「奇想」という概念が「曖昧」なのかというと。それは「あとがき」を読むとわかるのですが、「奇想」というのは、先行する理念としてあったわけではない訳です。「奇想」ということが、先行する理念としてあって、その結果、山雪や若冲といった画家たちが選ばれているのではなく、事後的に「奇想」という言葉が(「あれこれ探しあぐねた結果」)出てくるわけです。ところが厄介なことに、ここでは「奇想」という後付けの言葉が、突然「因襲の殻を打ち破る、自由で斬新な発想のすべてを包括できる」ものとされて、いとも簡単にあらゆる時代に適応可能な概念とされてしまいます(辻は『奇想の図譜』において、「奇想」の対象を、縄文時代から現代にまで広げて、「かざり」ということを提唱している)。

このことのなにが厄介なのかというと、ここでは「系譜」という言葉を使うことで、「又兵衛―国芳」という系譜的連続性が強調されていますが、なぜ「系譜」という言葉が使われるのかというと、それはこれまで江戸時代の絵画史において「異端」と見なされてきた画家たちを、逆にこの時代の美術の自己塑型としようという意識があるからです。ところが、よほど「奇想」という思い付きが気に入ったのか、ここでは「奇想」の概念を「因襲の殻を打ち破る、自由で斬新な発想のすべてを包括できる」ものと解釈することで、江戸時代だけでなく、より広く近世美術全般までも包括可能な概念へと飛躍させてしまうので、系譜的連続性ではなく、「奇想」という概念の包括性が問題となってしまうのです。

ここでは「又兵衛―国芳」というラインを超えて、近世絵画史全般にまで「奇想」の概念を適応することで、「又兵衛―国芳」という、これまで「傍流」「異端」と思われてきた画家たちを、雪村や永徳という、近世絵画の「主流」と見なされる画家たちとのラインに合流させるのですが、その方法というのは至って簡単で、雪村や永徳の作品に「又兵衛―国芳」たちと同じ、「奇想」性を見出すだけでよいわけです。「奇想」の概念というのは、非常に曖昧ですから、雪村や永徳に「奇想」性を見出して、これまで「傍流」「異端」と思われてきた「又兵衛―国芳」というラインこそ、近世絵画の主流であるとし、さらに彼らの異端性を、主流の中における前衛であると主張することは、それほど難しい作業ではありません。

実際、こうした作業は「あとがき」の数行で行われているのですが、ここで重要なのは、「又兵衛―国芳」というラインが主流派に押し上げられるには、主流派の流れを断念した狩野派の「粉本主義」の存在が影としてあることです。もちろんここには狩野派について具体的な記述はそれほどありませんし、「粉本主義」といっても、ある程度美術史の知識がある人でないと知らないことだと思いますが、重要なのは「又兵衛―国芳」というラインが主流に躍り出るのにために、彼らに代わって否定されるべき存在が端はしに示唆されていることです。なぜなら、ここでは狩野派の「粉本主義」を否定すべき「権威」「アカデミズム」と見なすことで、この枠外にいた画家たちが「前衛」であると理解されるからです。

もちろんここでいう「前衛」とは、西欧の「前衛」と大きく違うものです。ここでそれが「前衛」で「ある/ない」を決定しているのは、啓蒙主義的な「権威」に対する批判ではなく、「奇想」という、かなり「作為」的に体系化された基底的枠組によるものです。ここで注意したいのは、ここでは系譜的連続性はさして問題となっておらず、重要なのは「奇想」という概念を、どこまで適応させるのかという判断にあることです。しかも、それは「奇想」という概念が曖昧であるので、いくらでも恣意的におこなえるものとなっています。中国の文人画論や、西欧の純粋美術概念に対して「うらみがある」と言うだけあってか、辻惟雄には「古層論」的に日本の美術史から「奇想」、あるいは「かざり」「あそび」「アニミズム」といった範型を取り出して、それらを大陸に影響されない日本の美術の原型として語る傾向が見られるのですが、そこには、どんなにそれが「日本的」と言うしかないものであっても、それは歴史以前からあるものではなくて、歴史的に「形成」されたものであるという考え方が欠落しています。

たとえば辻が否定する岡倉天心によって形成された「日本美術史」には、「時代区分」を取り入れているという特徴がありますが、なぜ岡倉が、中世や近世といった時代区分を美術史に導入するのかといえば、そこには当時西欧に蔓延していたアジアに対する「停滞論」という蔑視が念頭にあるからです。「時代区分」を導入するというのは、近代化した日本は、旧套墨守で「専制と停滞」のままの中国とは違うという表明でもあったわけです。今でも「中国には近代がない」という侮蔑は残っていますが、「うらみがある」と中国の文人画論や西欧の純粋美術概念を避けてみせて、「かざり」「あそび」「アニミズム」という範型から美術史にアプローチする辻の「古層論」的な方法には、果たして中世や近世といった時代区分は必要なのでしょうか。(つづく)