永瀬恭一「脱美学―ブロークンモダンの諸相」(『組立−作品を登る』)

「批評がない」という定型句に対して、「批評はあるけれども構造に従属している」のが現状だという分析と考察は鋭い。おそらく、この論考を通して著者が読者に求めているのは、現状に対する認識の問い直しだけではなく、批評を十分に機能させない「構造」を自覚することで可能となる、より具体的なリアクションであると思うのだが、残念なことに、私にはとてもそうした行動は起こせそうにないし、大した意見も言えそうにない。ただ、それでもここには無視出来ない問題が提示されていると思うので、簡単に触発された考えを纏めておきたいと思う。


まず気になったのは、プロとアマの住み分けについての問題である。永瀬の論考では、プロ・アマの問題は、論を進めていくための前提として確認されているだけなので、突っ込んだ議論とはなっていないが、興味深いのは美術評論化連盟会長に就任した峯村敏明のインタビュー記事(毎日新聞2012年1月26日)から、web上のlogに氾濫するアマチュアの批評、ことばに対して、それは「批評でない」という切り捨てがプロの側からなされていることが指摘されていることである。なぜweb上に氾濫する批評は「批評でない」と切り捨てられるのか。確かに、それらは批評と呼ぶにはあまりにもいい加減で、不正確なものであり過ぎる。しかし、峯村の「今はインターネット上で言いっ放し。共通の話題も、受け継ぐ歴史も形成されない」という言葉は、林達夫の「アマチュアはアマチュアらしくなるべく自分の経験を地道に述べるべきだ」(「アマチュアの領域」*1)という言葉と比べると、些か寂しいものである気がする。

林の言葉は、園芸文化におけるアマチュアの役割について述べたものであるが、この言葉が前提としているのは、専門化には、アマチュアが語る経験を吸収し、それを新しい知識・概念にする役割があるということである。林がアマチュアに対して、「専門家のように完備した広汎な知識、あらゆる場合に適用し得る概念を彼らは目指すことは出来ないし、またそれを誰も要求しはすまい」というとき、専門家には、これとは逆にあらゆる場合に適用し得る概念と、広範な知識が完備されていることが要求されている。これに対して、内容の不正確さ故に、「批評でない」とアマの側を切り捨てる日本の美術批評界が前提としているのは、もはや専門家の側に、アマチュアの意見を包括的に取り入れるだけの柔軟性も、それを体系化し得る広範な概念も知識もないという事態である。アマチュアの経験を「傾聴するに値する」として、「報告する義務がある」という林と、ネット上で「言いっ放し」という峯村の違いというのは、アマチュアに対する認識の違いだけでなく、専門家の役割に対する認識の違いでもある。峯村の「受け継ぐ歴史も形成されない」とは、アマチュアの経験を吸収し、それを新しい知識・歴史として「形成」する役割を、専門家の側が放棄していることを意味するのではないか。

もちろん、林が「報告する義務がある」と言うときに想定されていたのは、紙を媒体とした雑誌ないし新聞記事であったので、峯村のweb上の批評に対する「言いっ放し」という評価には、永瀬が指摘するように、それが「印刷されていない」ものであるから、「見えない」「気づかれていない」ものとなっている可能性があるし。そもそもプロ・アマというモデル分け自体が有効なのか、何をもってプロとアマを定義づけるのか等の問題がある。しかし、プロとアマの問題は、批評の形骸化という問題を考える際にも重要な要因であると思われるので、もう少し、プロとアマの住み分けという問題について考えてみたい。

たとえば「批評がない」と言われ続けた状況というのは、美術雑誌の詰まらなさと直結した問題であると思うのだが。では、「美術雑誌の詰まらなさ」とは何なのかと言えば、それは「美術批評がアマチュア化」していたからと言えるものなのではないのか。仮に、ここで80年代以降の美術雑誌の詰まらなさ、不満というものを、アマチュア化した美術批評の不正確さ(思いつきと思い込みによる記事)にあると考えてみるとすると。なぜ、美術批評がアマチュア化したかのかといえば、それはアマの知識を採り入れることによって、既成の概念を打破する新たな概念を作ることが目指されるのではなく、アマ的立場から、これまでプロの視野からもれていた個人的な体験を語ることが選択されたからだと、答えることが出来ると思うのだが。この時、重要なのは、新たな概念を作りあげることが既成の概念を打破するものとなると考えられるのではなく、アマ的な立場に身を置いて、ものを言うこと自体が既成の概念に対する攻撃となり得ると考えられた思われることである。

このような立場が選択された理由としては、先行する世代に対する反発などの理由が幾つか考えられるが、ここで注意したいのは、ネット上の批評が「批評でない」と切り捨てられたように、80年代以降のアマチュア化した美術批評も、実は「批評でない」と切り捨てられていたのではないのかということである。実際、美術雑誌の方が、ネットに先行して不正確な批評で溢れていたと指摘すること容易いことであるので、それらが「批評でない」と切り捨てられていたと考えることは、それほど難しいことではないと思うが、厄介なのは、それらは読者に不満を抱かせても、アマチュア化した批評とは認識されてはいなかったのではないかと思われることである。なぜ、このことが厄介なのかというと。アマチュア化した批評という認識があれば、どんなに内容がお粗末でも、それはアマの経験として、「傾聴するに値する」批評であると考える読者が現れ、新しい概念が形成されたかも知れないが、アマ的な未熟さと認識されなかった故に、「詰まらない」もの、「批評でない」という切捨てしか起こらなかったのではないかと考えるからである。

なぜ、それらは読者にアマチュア化した批評として認識されなかったのか。おそらく、それは美術雑誌というものが、どんなにアマチュア化しようとも、「上からの言説」として機能しうる場であるからである。どんなにそこでカウンター・カルチャー的な立場が選択されていようと。そこには「下から言説」や「横からの言説」を排除して、それ自体が「上からの言説」として機能しようとする性格が潜んでいる。このことはアマチュア化した美術雑誌の担い手たちに、自分たちがアマチュア化しているという認識がなければなおさらのことである。「上からの言説」として機能してしまうから、学問的実績がなくとも、アマチュア化した美術雑誌から大学にポストを得ることも可能となる。しかし、そうしてアカデミズムの中に入っても、結局はアマチュアリズムを叫ぶしかなく。そこでも「批評でない」と切り捨てられ、住み分けが行われているとしたら。批評の形骸化が加速していくのは、プロ(専門家)の不在に起因するものとなるのだろうか。そうと言ってしまえば答えは簡単なのだろうが、はっきりと言えるのは「批評でない」と切り捨てるよりも、「傾聴に値する」と言う方が難しいということだけである。

最後に、山口昌男は「アマチュアの使命」*2の中で、西欧における地理的知識の重要性を説き。アマチュア(旅行家や宣教師)によってもたらされた地理的知識(旅行記、航海記)が、思想の専門家によって、西欧社会を客観化し批判する材料とされていたことを報告しているが、この考えに従うと、80年代以降のアマチュア化した美術批評を牽引していたのは、明らかに「美術市場」というユートピアであったということが出来る。しかし、アマチュア化した美術批評・美術雑誌が破綻したのは、金融危機でも大震災の影響ではない。それが破綻したのは、それが西欧のように「人間を規定する条件が相対的なものに過ぎない事を確認」するためのもの(外部)として語れていたのでなく、日本という「悪い場」に規定され続ける条件として語られていたからである。

*1:林達夫林達夫著作集4』(1971年、平凡社

*2:山口昌男『人類学的思考』(1990年、筑摩書房