村上隆×椹木野衣「アート憂国放談」(『芸術新潮』2012.5月号)

村上隆について。確か、以前は近代化以前の日本の美術には「ヒエラルキー構造はない」と発言していたと思うのですが、今度は一転して、「日本の歴史において芸能、芸術の徒は非人であり、人ではないものに分類されているにもかかわらず、人間としてのアイデンティティを奪還せよというような近代西欧の教育思想のみの肥大が問題であった」と、身分制によるヒエラルキー構造を前提とした発言をされているようなので、この発言について少し考えてみたいと思います。

村上による「日本の歴史において芸能、芸術の徒は非人であり」という発言は、網野善彦(『中世の非人と遊女』)の名を借りて語られていますが、網野がいう「非人」というのは、要約すれば、本来は天皇や神仏に直属する地位にあった人たちのことです。つまり神仏に仕える奴婢。「神奴」「仏奴」と、「聖別」されていた人たちのことです。彼らは聖なる存在に仕える身分であったので、一般の平民たちとは区別され、課役の免除や、自由な通行権の保証などが与えられていたと考えられていますが、網野の学説の特徴は、これらの人々の特徴を平民にはない職能をもった「職能民」であったとし。そこに仏師や石工のような手工業者、白拍子や猿楽のような芸能者、さらには借上げとよばれた金融業者までも含めて、中世という世界を広く捉えようとしていた観点にあります。

ところが中世の後期になりますと、神仏の権威の低下が起こり。それまで神仏に使える職能民として「聖別」されていた人々は、これまで「聖別」されていた存在であった故に、今度は逆に「賎視」の対象とされていくことになります。「聖」から「賎」への転落が始まるのですが、一番の大きな要因としては、網野が「異形の王権」と呼ぶ後醍醐帝による健武の親政の失敗と、それに続く南北朝の動乱があげられます。これにより天皇権威の低落、宗教的権威の低落が起こり、武士による俗権力が強固なものとなっていきます。ここで重要なのは、世俗の権力が宗教的権威の上に立つ道が開かれたことでです。それ以前のことを言えば、天皇(王権)と宗教(仏権)は、両輪の関係であったのですが、天皇権威が低下したことで、宗教的権威も俗権力の軍門に下っていくこととなり、社会からアジールが消えていきます。

神仏の権威の低下は、当然、それまで神仏の権威に依拠していた人々に、俗権力による庇護を必要とさせていきます。しかし商工業者や金融業者のように、富の力によって社会的地位を俗権力の中に確保することに成功するものと、遊女や非人のように見捨てられていくものに分かれてしまい。芸能民や宗教民は「賎視」され続けることになります。こうした状況は江戸時代になると制度的に固定化される事となり。これまで遊行の民であった人々にも定住化が義務づけられて、そこから遊郭被差別部落といったものが生まれてくることになる。大よそではありますが、網野の非人や遊女に対する歴史的な考察とは、このようなものです。網野の学説の特徴というのは、「下からの言説」を問い直すことで、これまで自明と思われてきた歴史を相対化し、「日本」という概念を疑うところにあると思います。一般的に網野の学説が参照される場合も(私が知る範囲ですが)、このような理解から国民国家や市場社会の問い直しとして使われている場合が多いと思うのですが、村上の発言で驚くのは、これとは逆に、近代国家や市場社会を肯定する発言として、網野の名前が使われていることです。

正直に言うと、私には、村上の「非人」という発言の真意が、何処にあるのかが分かりません。日本の現状を無視して西欧近代を採り入れている教育思想に対する批判にあるのか。あるいは単に若い人を押さえつけたい・説教したい、という事にあるのか。どちらなのかは分かりかねます。ただ、たとえ村上の真意が、若い人たちに日本で芸術なり芸能の地位が低いのは、前近代的身分制度に由来するものだということを自覚させて、その上での行動を求めるものだとしても。そうした現状は、西欧的なものを排除すれば改善するものだとは思えません。もし村上が、西欧的な思想が肥大化していることが事の原因と考えているとしたら。彼が、そのことによって阻まれていると考えているのは、前近代的身分制度を前提とした縦の秩序の方ではないでしょうか。

私がそう疑うのは、村上の千利休に対するコメントからです。村上は、この対談で千利休についても言及していますが、村上が利休に触れながら、「覇王にくっついて、文化の手ほどきをする」「覇王のヴィジョンを具現化する」というコメントする時、縦の秩序が強く意識されていると思うのは、私だけでしょうか。もっとも村上の、利休の本質に対する理解には幾つかの訂正が必要だと思われます。たとえば利休というのは、確かに日本の美術史では珍しく政治に深く関与した人ではあるのですが、利休という例外を可能としているのは、「茶の湯」が上下の身分という序列を無化する場を提供していたからです。つまり茶の湯には「無礼講」の論理が入り込んでいるということです。これは南北朝以来の伝統であって、後醍醐天皇が源氏や平氏といった武臣を介さずに、民と直接結ぶつく親政を興そうとした際に、無礼講の場として活用していたことは有名です。しかし、この論理が歓迎されるのはあくまでも乱世の事であって、太平の世では必要とされません。だから当然、利休が重宝されるのは戦国乱世までであって、世が太平に向かえば排除されることになります。

なぜなら利休に求められたのは政治の場に、世俗の序列を無効とする芸能的な寄合。つまり横の関係を持ち込むことであって、「覇王のヴィジョンを具現化する」ことではないからです。従って「覇王のヴィジョンを具現化する」ことを求めるとするなら、まず行われなければならないのは、利休的な横の関係・理論を排除することとなります。つまり下克上を許さない縦の秩序を構築するということです。なぜ「千利休を継承」すると言う村上が、利休的なものを排除しなければならないかというと。村上が「覇王のヴィジョンを具現化する」と言うときに想定されているのは、実際は利休的なものではなく、利休的なものを排除した後に構築された縦の秩序であるからです。

江戸時代の文化を見ると、縦の秩序が厳格に守られていることが分かります。たとえば北斎芭蕉のように、この時代の文化を支えた人たちの多くが、武士階級の出自であるのですが、こうした人たちが制作活動に専念するには、宮仕えをやめて、町人になるか、出家するしかい。縦(身分)の秩序というものが極力、荒らされないようにされている訳です。この点を無視して江戸時代を町人文化の勃興と言っているとしたら問題があると思います。もちろん、そうした状況の中でも歌舞伎のような「下からの言説」が確保されていたことが、この時代の文化の重要性であるのですが、ここで問題とすべきは、このような縦の秩序がなければ、作品が可能とならないのか、ということではなく。このような秩序を想定しなければ、作品に対する評価も権威も保てない・得られないと考える村上の思考の方であると思います(村上隆という人の分からないところは、「非人」ということを言うのであれば、こう言う時にこそ「お金」を肯定する発言をして、そのことが前近代的な差別構造から芸術家の地位を引き上げることになると言えば、それなりに筋も通るし、人からも理解されるだろうと思われるのに、そういう事は言わずに、自身の権威を確保するために、前近代的な秩序を求め、権威者に依拠したヒエラルキー構造こそが芸術や文化を生産していくという発言をしているところです)。