中村和雄「引込線と現代美術」(『所沢ビエンナーレ美術展2011カタログ』)

「引込線」という展覧会タイトルから、作家の活動には少なからず「ひきこもり」的要素があることが指摘され、そこから昨今の美術界の商業主義の流れに対しての警鐘が語られているのだけれど、好感を覚えるのは社会から隔絶してひきこもるという行為の葛藤、過酷さに対する理解と、共有が示されている点である。ただ気になるのは、ここでは作家に高度に制度化、資本主義化した日本の社会の現状を、われわれに気づかせる、呼び止めるアウトサイダー的存在であることが求められているのだけれど、そのたとえとして過ってオウム事件の時に作家が示した、善悪二元論に捉われない皮膚感覚と本能が語られていることである。

もちろんここで私が問題としたいのは、「オウム事件」がたとえとして持ち出されていることではない。私が言いたいのは、ここでは善悪の二元論に囚われずに事件を注視していた作家たちの姿勢が評価されているが、この事件を注視した作家たちがそこで感じとったのは、一般社会から隔絶することの不安であったのではないかということである。そしてこの「不安」こそが、ここで批判されている日本の現代美術の商業主義的な方向性を規定する要因になっているのではないのかと考えるのだが、ここでいう「不安」を私は、吉本隆明の「転向論」を念頭においていっている。

つまり戦前のマルクス主義者の転向とは、政治権力の圧力よりも、大衆からの孤立感が最大の条件となったのではないかということである。もちろん美術の商業化というのは、いろいろな要因によるものであるので、社会から断絶してしまうことの恐怖が全てという訳ではない。しかし作品が「売れた/売れない」というのは、大衆との距離を確認するバロメーターになり易いのも事実であるので、たとえば最近の商業主義的で安易な日本回帰の流れも、社会から隔絶することの不安という観点から説明が可能なのではないだろかと思うのである。

ここでいう「不安」とは、商業的な面における出来事だけではない。たとえば岡本太郎を評価する人たちが一様に岡本を大衆との距離の近さから評価するところからも伺える。大衆との距離の近さを評価するということは、裏返して言えばそれだけ彼らが大衆から離れてしまうことを恐れている証である。こうした傾向は、一見すると過激に見える行動をしているように見える作家たちや、そうした作家を評価する人たちの大半が社会ではなく、社会から隔絶することを厭うことなく美術と係わっている人達の方を目の敵としていることからも伺えるだろう。

ところで何故、作家は善悪二元論に囚われないのだろうか。私は作家こそが「善とは何か」、「悪とは何か」という、人間存在の意味を積極的に考える存在だからだと考える(たとえばドストエフスキーの小説がそうであるように、「善」や「悪」に対する問いが、人間存在に対する問いとなるのである)。芸術は人為的な世界の出来事である。その限りにおいて、それは徹底的に倫理(人倫)の世界に属するもので、簡単に人間の世界から手放してはいけないものである。従って芸術作品を、倫理的な善悪で判断することが出来ないものと理解することはあまり正しくない。それは積極的に倫理を問うものと理解されるべきである。両者の違いは何かというと、今起きていることを、倫理的な判断によって作品に対する誤った判断がなされていると認識するか、倫理的なことを問う作品を制作することが阻まれている、あるいは放棄されていると認識するかの違いである。

宗教的な聖俗二元論でいうと、この世界(俗世界)というのは、聖(秩序)に対しての無秩序な世界と認識されるので、そこにおいて人間の本来のあるべき姿、あるいは世界の姿を形而上的な世界を念頭に問うことはさほど難しくない。しかし近代では聖俗(秩序/無秩序)の関係が逆転して、この世界こそが秩序であり構造であると認識されることになるので、そこでこの世界の秩序を疑う問いを発することが極めて難しくなる。ここに既成の秩序に挑むふりをしながら、中心に奉仕する作家たち(彼らの多くは自らを周縁者、アウトサイダーと名乗っている)が現れる土壌があると思われる。ここで重要なのは彼らを導いているのは制度ではなく、一般社会から隔絶してしまうという不安であることと、そこでは自らの正当性が、大衆からの距離の近さによって証明されようとしていることである。