『美術手帳』(2012年1月号)

『美術手帳』(2012年1月号)の村上隆インタヴュー記事。村上はここで福沢諭吉の「一身の独立なくして一国の独立なし」という言葉を引き合いにしながら、人が依拠する「国」というフレームの有無、明確さが日本と欧米の「アート」の力の差であるとして、戦後溶解してしまった日本という「国」のフレームの再構成、再編を要求しているのだが、村上の要求のお粗末さは、福沢の「一身の独立なくして一国の独立なし」という言葉は、「国」に依拠することを否定する思想であることに気づいていないことである。

福沢の「一身の独立なくして一国の独立なし」とは、『学問のすすめ』第3篇において語られている言葉であるが、福沢にとって「独立」とは、「自分にて自分の身を支配して、他に依りすがる心なきを云う」ことであり、それは国に依拠することを目的とするものではない。おそらく村上は「一身の独立なくして一国の独立なし」という言葉から、戦前の「家族国家観」的な国体論を思い浮かべたのだろうが、福沢はヨーロッパ的な市民社会論者である。福沢において大事なのは何よりも「一身の独立」、つまり自立した個人の形成であって、「一国の独立」とは、自立した個によって形成、確立されるべきものであった。そこに他律的に、国に依拠するという考えが入り込む余地はない。

村上が福沢の思想を理解していないのは明白である。理解云々以前に、福沢の書物を手にしてすらいないのであろう。村上にとって「一身の独立なくして一国の独立なし」とは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』からの孫引きでしかないのである。それを思いつきと、思い込みで、自分の都合に良い理解に変えているのだが、基本的な文献から自分が引用する言葉の意味を確認する作業を怠っているような人間が、「教育」ということを恥ずかしくもなく語るのだから驚きである。