境澤邦泰「絵画と視線の行方」(『組立−作品を登る』)

絵画の平面性とテーブルの平面性の関係が、画家の視点から分かりやすく書かれているという点に於いて、非常に優れた文章、論考であると思うのだが、ただ一点だけ、「床面」についての件には少し物足りなさを感じる。床は、ただ足の裏で踏まれるだけの場なのだろうか。もう少し内容豊かに語られる場でないだろうか。ここで床面を問題とするのは、境澤が床について語る時に、舗床モザイクの存在が念頭にされていないと思われるからである。

なぜ、舗床モザイクなのかというと、ここでテーブル(table)とタブロー(tableau)の同義語性あるいは、関係性が語られる時に念頭とされているのは、テーブルとタブローに共通する平面性だと思うのだが、床ほど平面性、水平性を前提とした場はなく、そしてそこに描かれているのが舗床モザイクであるからである。もしかしたら壁面も平面性を前提としているではないかと思う人がいるかも知れないが、建築の壁面に描かれる壁画というのは、例えばフレスコ画がそうであるように、必ずしも平面性を前提としたものではない。フレスコの支持体は凹凸に波打っているものであるし、そもそも壁自体が曲面である場合もあるので、壁面は、まず立面として認識されるべきものである。

絵画が平面性を前提とするのは、建築の従属から離れた時からである。例えばイタリア語で絵画のことをquadroと、四辺の枠組みを強調した呼び方をするのは、この枠組みこそが絵画を建築の従属性から解き放ち、絵画の自立性を確保するものであるという意識があるからだと思われるのだが(テーブルとの関係性でいうとイタリア語ではパレットのことをtavolozzaと呼ぶ)、これに対して床面は、その始めから平面性が確保されている。そこに描かれるモザイクは、確かに足で踏まれるものである。しかし、それは眺めようとした場合、境澤が床に置かれたポロックの絵画を語ってみせたのと同様に、常に斜め上から見下ろさなければならないという制約を受けるものである。

ここでは床とポロックの絵画の相違が、足が踏み込む場と、斜め上から覗き込む場の違いに求められているが、舗床モザイクは、この二つの点を兼ね備えている。それは足で踏まれるものであると同時に、斜め上から眺めなければならないものである。ただ足で踏まれるものである以上、壁面に描かれる壁画のように、モザイクからフレスコ、テンペラ、油彩画といった画材・技法の展開も望みがたいものであるし、描かれる主題も宗教建築の場合、多くの制約を受けることになるものである。従って、立面と床面の差は、それが見られる位置よりも、配される場にあるといえる。

ポロックの絵画は、床の上に置いて制作されるが、境澤が指摘するように床面ではない。しかし、それは建築の従属から離れることで平面性を確保した絵画であるから、建築に従属する壁面でも床面でもないということである。絵画は始めから平面性が確保されていた床面とは違い建築の制約から自由である。しかしポロックの絵画に見られる独特の面白さ、たとえばドリッピングに見られる浮遊感といったようなものは、これまで壁面や天井に描かれる絵画を投射、反映するだけの場であった床面が、これまでとは逆に壁面に影響を与える場になる可能性を示唆するものでないだろうか。境澤の論はイーゼル絵画に於いては、非常に有効だと思うのだが、「床面(水平)→壁面(垂直)」として語る可能性もあるのではないだろうか。



※舗床モザイクについては、辻佐保子『古典世界からキリスト教世界へ』(岩波書店、1982年)を参照。