村上春樹『1Q84』

『1Q84』というタイトルは、ジョージ・オーウェルの『1984』を連想させるタイトルである。しかし、ここで意識されているのは、ジョージ・オーウェルよりも、ドストエフスキーであり。目指されているのはドストエフスキー的世界を形而下の世界で物語ることである。

何故、天吾が、少年時代に自分を守る為に必要とした数学の「明快さと絶対的な自由」ではなく、物語の世界を選択するのかといえば、それはここでは「2+2=4」という等式が自由と解放のメタファーとして機能するジョージ・オーウェルの『1984』ではなく、「2×2=4」が抑圧の象徴であるドストエフスキーの『地下生活者の手記』が選択されているからである。

ここでは「絶え間なく天上に伸びていく」数学の世界ではなく、「眼下に無言のうちに広がって」いく物語の世界が目指されるのだが、ここで天吾を導き(或は天悟に導かれて)物語を牽引して再生に導くのが青豆である。しかし青豆が首都高の緊急避難用階段を降りて踏み込んだ世界(「1Q84」)とは、所与として世界と自己が喪失されている「形而下」の世界である。この世界では、イヴァン・カラマーゾフが「大審問官」(『カラマーゾフの兄弟』)で必要とした神への「反逆」は必要とされない。ここでは神への「反逆」がなくとも、「子供の涙は贖われなくてはならない」し、暴力に対する報復は「正しいこと」として処理されなければならない。何故なら、ここは形而下の世界であるから。ここに問うべき「神」などいない。

ここでは肉体執着と肉体憎悪的が同居している。しかし、ここでは放埓で無為なSEXは肉体憎悪的として認識されない(「あなたは自分を損なうことは何もしていない」)。しかし、婦人警官のあゆみは男に蹂躙され損なわれ、殺害される。何故か。あゆみの死は、青豆に、あゆみの求めていたもの或はあゆみを支配していたものは「恐怖」であり、青豆の放埓な欲望が望んでいたのは天吾に対する「愛」であったことを告げる。しかし、青豆の天吾に対する「愛」とは、カルト教団「さきがけ」のリーダーが指摘するように「宗教そのもの」である。

10歳の少女(青豆)は、両親と両親の信仰する宗教(「証人会」)を捨てる決意と同時に、天吾への「愛」というおそらく彼女にとって本当の意味での信じるに足りる対象(「宗教」「王国」)を見出し、やがて彼女は、この「愛」の為に、ほとんど殉教者的に(この王国の中に自分が含まれていることを感じながら)自らに銃口を向けることになる。

何故なら、この世界は既に失われている世界であり、もはやこの世界で世界と自己の回復が望めないとしたら(「出口はふさがれてしまったのだ」)。彼女には、愛のために死に、その思想の高みに達することを望む道しか残らないから。

「天吾」と「青豆」という風変わりな名前から、「天主」と「一粒のからし種」という言葉を連想するのは容易い。しかし、青豆が「一粒のからし種」として、天吾(天主)の為に殉じることで、喪失した物語の「再生」が暗示されたとしても、そこに何の意味があるというのだろう。この物語の読後に感じるやるせなさ(或は馬鹿馬鹿しさとは)、「物語」を渇望しながらも、もはやこのような形でしか「物語」が成立しえないのかという喪失感である気がする。