村上春樹『1Q84』(2)

Book2「第11章(青豆)均衡そのものが善なのだ」を読む

この章で下敷きにされているのは「マタイ伝第4章」である。もっと厳密に言えばドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で、イヴァン・カラマーゾフに語らせた「大審問官」であるのだが、ここで重要なのは、ここには問われるべき「神」がいないということである。この世界に「神」はいない。ここは形而下の世界であって、形而上的な世界ではない。この世界にあるのは実証可能な「肉体」であって「精神」ではない。

しかし人間は、この「非力で矮小な肉体」に条件づけられており。そこには痛みが伴う。何故、青豆が、ここで宗教団体のリーダーが持つ肉体的苦痛に対して、その苦痛を軽減させる為のストレッチングを行うかといえば、このリーダーの肉体が抱える肉体的苦痛とは、この「肉体」なしては生きられない人間のメタファーであるからである。

だが、彼(リーダー)はキリストではない。であるので、ここでは悪魔の誘惑に対して「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの生きるものだ」と答えたキリストとは違い。少女に対する暴力(レイプ)に対する粛清によってもたらされる死によって、自身の肉体的苦痛が解消されることが望まれる。ここで彼に与えられている役割は、「神の言葉」を拒否する「大審問官」であって、悪魔に試されるキリストではない。

では、青豆の役割は何か。彼女は、イヴァン・カラマーゾフ的な「暴力」で、少女の、子供たちの「涙をあがなう」。しかし、彼女には、反逆しなければならない「神」はいない。青豆にあるのは、特定可能な天吾という「愛」であって、観念ではない。だから、青豆に於いては「石をパンにかえてみろ」という悪魔の問いは始めから拒絶されている(第10章「申し出は拒絶された」)。

ところが、ここで彼女自身に思いもよらない奇蹟が訪れる。青豆は、第13章(「もしあなたの愛がなければ」)で、天吾が青豆と同様に互いを「求めている」ことを知るのだが、ここで重要なのは、それは「石をパンにかえる」ことよりも、特殊な能力でチェイストの置時計を空中に持ち上げることよりも、青豆にとっては、奇蹟的な事であるということである。

自分の愛する人が自分のことを忘れずにいるという奇蹟は、青豆に、自身が「肉体」のみで生きているのではないことを教える(「心から一歩も外に出ないものごとなんて、この世界には存在しない」)。ここで物語は新たな局面に向かう。青豆は潜伏先で天吾の「言葉」(『空気さなぎ』)に触れ。その「言葉の世界」に自身が含まれていることを感じる。しかし、ここで問題なのは、青豆が、この世界で天吾と出会なければ、青豆の実証可能な「肉体」の世界は失われてしまうのかということである。もし、この世界が「青豆と天吾」或は「言葉と肉体」が出会うことがかなわない世界であり。この世界に「青豆と天吾」の「言葉と肉体」の回復がないとしたら。青豆には、自身が天吾と同じ世界に含まれていることを感じながら銃口の引き金を(19世紀のロシア文学的に)引くしか、夜空に浮かぶ二つの月を眺める2人の距離を縮める手立ては残されていないのだろうか(「もしそこに拳銃が出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある」)。