「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展

マーク・ロスコ 瞑想する絵画」/DIC川村記念美術館 | Kawamura Memorial DIC Museum of Art

今回、展示されていた「シーグラム壁画」の特徴というのは、ロスコの絵画の特徴である「水平線分割」が、非物質的な光(色彩)の矩形が持つ正面性が強調された作品群を(例えば『突き当たりの壁のための壁画』)、間隔を狭めて並列に展示することで暗示(演出)されていることである。

この「初めも終わりもない」矩形のヴァリエーションが暗示する「水平線」は、観者に、この水平線上に広がる果てしない空間と孤独に対峙することを強いるのだが、この水平線が暗示しているのは上昇性ではなく下降性であって、そこで体験する「崇高」性とは、「宗教的体験」ではなく、「擬似宗教的体験」なのである。

従って、ここでは通常よりも幾分か高い位置に作品が展示されてはいるが、そこには一般的な宗教画に認められるような上昇性や「垂直性」はない。ここで求められているのは、この水平線が暗示する広大な空間と対峙することであって、天上の神に平伏することではない(ロスコの左右相称な絵画にはイコンに近い正面性があるが、それは「パントクラート」ではない)。

ロスコの絵画には、絶対的な大きさがある。しかし、それが絵画として認識・知覚されるには「距離」が必要とされる。ロスコの絵画の大きさが必要とするのは、観者が、その絵に近づき作品に没入・一体化することではなく、この絶対的な大きさの絵画が、絵画として眺められるのに必要な距離である。

もちろん物理的に言えば、観者は、自由に作品に近づき距離を好きに変えて絵を眺める事が出来るし、そこで様様なことを知ることが出来る。例えば「シーグラム壁画」の隣の展示スペースに展示されていた「黒い絵」の連作で言えば、それは遠くから眺めれば限りなく黒一色に近い絵であるが、近づけばそこには黒以外の、暗紫色、焦げ茶、といった色を見出すことが出来る。しかし、それでもそれが絵画として成立するには距離というものが、必要とされているのである。

絶対的な大きさのあるものを、ある距離を持って観るという行為には、比例の感覚を麻痺させる作用がある(例えばロスコの作品を会場で見た後、会場の外でカタログの図版を見ると、作品サイズの感覚が狂っていることに気がつく)。この麻痺した比例の感覚は、ロスコの絵画と、フリードリヒの『海辺の僧侶』を対比させて、「無限性との戦慄的な対決」をロマン主義の観点から論じたロバート・ローゼンブラム(『近代絵画と北方ロマン主義の伝統』)による議論の重要性を再認識させるのだが、今回、ロスコの作品を観て思い浮かべたのは、フリードリヒではなく、カラヴァッチョである。

何故、カラヴァッチョかと言うと。単純に、両者の色使いが似ているということもあるが(たとえば官能的な赤)、ロスコの作品のヴィジョンのスケールが、カラヴァッチョの作品のヴィジョンのスケールと重なるからである。特に、ロスコの「黒い絵」は、カラヴァッチョの「黒い鏡」と評される作品群と見事に重なる(両者の作品を交互に並べて展示したら面白いと思う)。

ロスコの物語的出来事のない絵画と、カラヴァッチョの聖書を題材にした人間中心的な絵画とでは大きな隔たりがある。しかし、カラヴァッチョの聖書を題材としながら、上昇性ではなく下降性を示唆する人物の身振りと視線は、地平線(水平線)の存在を暗示しており、そこに単なる外見の相似以上のものを感じる。