「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展(2)

シーグラム壁画」の展示を高いと見る意見があるようだけれど(おそらく「シーグラム壁画」を「高い」と見なす意見の大半は、「美術館」の目の高さに作品を展示する視線を前提としたものだと思うのだがけど)、「高い」とは、「低い」の違いによってのみ定義される示差的特徴であるので、もし「高い」ということを問題にしたいのならば、まずはそれを「高い」と見なす「視点」の所在が語られなければならないとおもう。

このことを理解せずに、安易にロスコの絵画を従来の宗教画と混同して、それを「宗教」という自らの理解を超えた認識の外に追いやるのは、理解の拒否でしかないだろう。美術館の壁面を前提とした視点からすれば、確かに「シーグラム壁画」は、通常より高いと思われる位置に展示されてはいると思う。しかし高いと言っても、それは西欧の教会美術(キリスト教美術)にみられる天井画や壁画を連想させるほどの高さではない。

シーグラム壁画」を聖堂の壁面や天井に描かれるフレスコ画やモザイク画と同列に見るには、少なくとももう一段は上に作品が展示される必要があると思うのだが、たとえその位置に作品が展示されたとしても、それでもその高さというのは、聖堂内部の壁面に描かれるモザイク画やフレスコ画の高さの基準からすると、ぎりぎり下段に位置するかどうかであって、壁面上段には程遠い高さである。

ここで「シーグラム壁画」を、美術館でなく、聖堂内部の空間を前提とした教会美術と比較するというのは、「高さ」ではなく、「低さ」を問題とするということである。ここで問題とされるのは、何故、この様な「低い」位置に描かれるのか(或は展示されるのか)であって、「高さ」ではない。このこと(つまり「高さ」ではなく「低さ」を問うということ)が理解出来ない限り、キリスト教美術の展開は理解出来ないと思う。

シーグラム壁画」を聖堂内部に描かれる壁画と比較すると、「シーグラム壁画」が展示されていた位置というのは、見やすい、親切な位置になる。何故なら、通常、聖堂内部の壁画が描かれるのは、もっと採光条件が悪く、見難い天井や壁面の上段であるのだ。では何故、その様な位置に教会美術が描かれるかというと、一つには「イコノクラスム」の影響があって、安易に見られる事で誤用が生まれることが避けられているのと、そこに描かれる天上と地上を仲介するキリスト(或は観者とキリストを仲介する使徒たち)とは、あくまでもイメージであるという認識が、作品と観者との間に絶対的な距離を要求しているからである。

一般的に「聖像論争」に対するもっとも一般的で妥当な回答というのは、それが「文字を読めない人たちの為のもの」という答えであるが、こうした回答が有効になるのは、カトリックが本格的に世界布教に乗り出したトレント公会議以降の、文字通り彼らの言語が通じない世界の話であって、読むというとが、目(黙読)でなく、声(口頭)の属していた時代にまで、それを当て嵌めるのは慎重になるべきである。

ここで大事なのは、西欧絵画とは、このような距離を強要する聖堂の建築構造(垂直構造)から生まれたことではなく、そこから絵画がイメージとして成立するには、絶対的な「距離」が必要であるという事を自らに刻印したことである。そしてこれは時代が下って、それまで宗教画が内包していた神秘的なものや、超自然的な体験が宗教画の外に見出され、天上的なものが地上の地平に押し倒され、垂直構造からではなく、水平構造から追い求められるようになっても変わらないのである。

シーグラム壁画」が観者に要求する距離とは、垂直間係ではなく、水平間係から要求される「距離」である。この「距離」とは、ロスコの絵画の持つ絶対的な大きさが、それが絵画として知覚されるに必要な「距離」の事である。つまり重要なのは「高さ」「低さ」ではなく。この初めも終わりもない、出現し、消滅する、矩形のヴァリエーションが、バロック的に演劇化された空間に展示されていることである。

もちろんバロックの享楽的な世界と、ロスコの禁欲的な世界とでは、両者は対極である。しかしロスコの絵画の大きさが、何処から導き出されるのかといえば、それはカラヴァッチョやベルニーニと同じ「見る」という欲望からではないのか。

ロスコの左右相称な絵画からは、イコンに近い正面性が認められる。しかし、例えそれがどんなに禁欲的な絵画だとしても、それでもそこには「見る」という欲望が残るのである。そこには「見る」という欲望があり、それは「見られる」ことを欲している。ロスコの絵画は「見ること」「見られること」を拒否する絵画ではない。「シーグラム壁画」が要求する演劇性、スケール、大きさは、バロックと交差するものだが、それを可能としているのは「見る」という欲望のヴィジョンではないだろうか。