「国際展の現在」

情報に疎いので、『REAR』という芸術批評誌の最新号(no.21)を見るまで知らなかったのですが、2010年に愛知で「あいちトリエンナーレ」なるものが開催されるらしく、『REAR』の誌上で芸術監督を務める建畠哲を囲んで、三田晴夫、岡部あおみ、福住廉、による座談会(「国際展の現在」)が特集記事として掲載されていたので読んでみた。気になったのは、国際展の本質を「祝祭性」に見ることで、大規模な国際展が愛知で開催されることの意義が論じられている割には、何故か、「祝祭」(或は「祭り」)というものが成立するのに不可欠な<聖−俗>という対立項が見当たらないこと。

ここでは国際展を「祝祭」と定義することで、従来の日本の国際展には、社会(共同体)のリビドーを解放し蘇生させるオルギーとしての要素が少ないということが指摘されるのと同時に、機能主義的な側面から、共同体のリビドーを解放し蘇生させる「祝祭性」の重要性が説かれているのだが、議論が機能的解釈に傾きすぎているので、「祭り」や「祝祭」というものは、確かにそれは日常性の裏返しではあるが、それは単に日常性を否定すれば成立するものでなく、そこにはより高次な規範が必要とされるということ(つまり無秩序ではあっても無規範ではないということ)が理解されていない気がする。

<日常−非日常><ハレ−ケ>という対立項はあっても、<聖−俗>の二項がないというのは、ここでは社会学的立場から、美術は、日常に対する非日常的なもの(或はケに対するハレ)と見なされているからだと思うのだが、<カオス/ノモス/コスモス>という三元論に照らし合わせて考えて見ると。ここにあるのは<カオス/ノモス>だけであって、この<カオス/ノモス>の二元論では、どんなにそこで美術というものを思考してみても、そこで語られるのは「制度としての美術」が限界であって、後は日常性を否定すれば「美術」が成立するという程度の安直な議論しか生まないと思う。