『美術手帳』(2012.10月号)特集「超絶技巧!!」

NHK出版による本かと思うほど、ここ最近のNHKのテレビ番組(「日曜美術館」など)と内容が重なる特集記事であるのだけれど、山下祐二の「この日本には、時流やマーケットの動向なんてものとはさらさら関係なく、ただひたすら、修行僧のように、自らの技巧を突き詰めている作家たちがいるのです」という解説文で気をつけたいのは、「修行僧」といった言葉が使われているが、ここで紹介されている作家の作品というのは、基本的に現世(世俗)主義的、享楽的な作品であって、禁欲的な要素などどこにもなく、むしろ欲望肯定的であるということ。
ここでは技術というものが、マゾヒスティックな苦行を前提としたものとして語られている。なぜこうした論調で技術や作品というものが語られてしまうのかというと、おそらく日本では「修行僧」的な精神主義に対してマイナスのイメージが少ないからだと思う。多くの人がストイックな精神主義をありがたる。しかし、例えば日本の仏教には戒律に対しての厳格さはなく、むしろ戒律の緩さを相殺するかのように苦行が求められているという一面もある。激しい修行・苦行を要求するが、最終的には現世的で、欲望を受け入れるというのが日本の仏教の特徴なのだが、これは日本の美術の特徴でもあると思う。
確か日本の宗教美術に形而上作品は一つもない、全て現世利益を願った形而下なものであると言ったことを主張されていた宗教学者が居たと思うけれど、これはなかなか面白い指摘で、確かに日本の美術というのはみな現世的であって、超越的な世界を描いた抽象的な作品というものはほとんどない。今回の特集記事で紹介されている作家の作品というのも、みんな現世的、欲望肯定的な作品であると思うのだけれど、なぜかストイックさが強調されて、作品に見られる享楽さに眼がいかない。これでは日本の仏教が修行僧的な苦行を自己目的化することで戒律の空洞化を誤魔化したのと同じである。おそらく一番の問題は、技術(技巧)ということを問題にしておきながら、技術を技術として語る作業が疎かにされていることである。ここでは技術が語られる代わりに細部性が語られそこに芸術が宿っているとされているが、細部に宿らない芸術もあるということを理解しなければならない。