『芸術新潮』(2011.9号)

芸術新潮』の最新号に、「ニッポンの「かわいい」はにわからハローキティまで」という特集が組まれているが、ハローキティが、世界的に人気があるキャラクターであることを理由に、美術史を単純化して、「かわいい」というのが、古来より不変にある日本のオリジナルティとして語るのは馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。日本文化の原型を縄文時代やアニズムに求めて語るというのは、俗受けする方法ではあるが、日本の文化や美術の原型を「古層論」的に見つけ出して語るというのは、ステレオタイプ的な日本主義でしかなく、それをいまだに無批判に受け入れ、歓迎しているのは、日本の美術界ぐらいである。

縄文土器や石仏など宗教美術を見て「かわいい」としか言えないというのは、一言でいえば思想の欠如である。博物館や美術館の照明の下で見れば、それらは笑っているように見えるかも知れない。しかし、それらが制作されるに、どれほどの闇があったかを想像することすら出来ないというのは恥ずべきことである。たとえば矢島新は女子大生とのお喋りの中で、「かわいい」を「素朴」という言葉で援用しているが、「かわいい」を肯定して語りたいなら、持ち出すべき言葉は「愛し(かなし)」であろう。

「愛し(かなし)」とは、いとしさに対する「かなしみ」のことである。いとしさに対する「かなしみ」とは、どんなにいとしいものでも有限な存在であるという悲しみのことであるのだが、ここで「かわいい」が「かなし」として語られることはない。何故なら、山下祐二の「東アジアの中の「かわいい」日本美術史が選び取ったもの」という文章からも分かるように、ステレオタイプ的な日本主義として語られる「かわいい」とは、古代(原始的なもの)をオプティミズムなものとみなすことを大前提にしているからである。

古代をオプティミズムなものと見なし、そこから日本の文化の原型を肯定的に語るという方法は近世から続く日本の悪しき文化史観であるが、オプティミズムとして語られる「かわいい」とは、山下が期待するような日本美術を語る新しいキーワードになるものではない。それは多くのものを見失わせることになるだろう。オプティミズムとして語られる「かわいい」とは、斉藤環がいうような「成熟」に対するアンチテーゼではない。それは多くの人に「未熟」「稚拙」であることを強要するものである。そして多くの人が既にそのことに甘んじている。