椹木野依批判

椹木野衣「地質活動期の美術」(二)

椹木野衣「地質活動期の美術」(『文學界』2012.3月号)。椹木の「絵画の体験は、僕ら個々、身体の側にあって、火事場で救うべきは物などではなく、この身体なのだ」という比喩のおかしさは、「身体」も絵画と同じく、「物」であるということが無視されていることです。なぜ日本語で人間の肉体の事を「からだ」と呼ぶのかといえば、それは「たま(魂)」が宿る「から(殻)」だからという死生観が、古代の日本人にはあったからです。「物」という観点からいえば、椹木が「自分が死に、絵が残っても、それは単なる抜け殻に過ぎない」と言い放つことと、「たま(魂)」が抜けた身体のことを「なきがら」と呼ぶことの間に大差はありません。絵画と身体が共に同じ物であるということは、ここで身体が選択される理由は、物で「ある/ない」ということではないということです。ここで身体が選択される理由は、それが「個人の生」の側に属しているからです。誰であれ我が身が可愛いのは当然です。身の安全を優先する行為が咎められることは、それが社会的な責任(他者の生命に対する責任)を放棄する行為であったと見なされない限りないでしょう。しかし、当たり前のことですが、火事場で身の安全を選択することと、作品の体験が身体の側にあるとすることとは、全く別のことです。別のことであるのに、ここでは同じことのように語られています。

「身体」が選択される理由として語られるポータブルとは、小説は何度も読み返せないが、詩であれば暗記が可能であり、一度暗記してしまえばどこでも運べるということのようですが、詩を暗記した「身体」も、小説が印刷されている「本」も、ともに同じ「物」である以上。ここにあるのは「身体」か「物」か、という選択ではなく、「記憶」か「記録」か、という選択です。歴史的なことを先に言えば、「記憶」ではなく、「記録」を選択したのが人間の歴史です。なぜ「記憶」ではなく、「記録」が選択されるのかといえば、「ことば」は人間の歴史に属するものであるからです。人間は自然的存在である同時に、歴史的存在です。「ことば」は人間の身体から発せられるという点においては、自然に近いものですが、文字は自然から与えられたものではないので、人間の歴史に属するものとなります。もちろん物質的な制約は受けますが、ことばを人間の領域のものと保証しているのは、文字の持つ物質性です。同じように物質的制約を受ける作品を、作品として保証しているのも、作品が持つ物質性です。

「物」という観点から言えば、「文字」や「絵画」も、「身体」と同じ「物」です。「物」であるということは、一度失われてしまえば、永遠に失われてしまうということを意味します。死んだ人間が生き返らないように、作品も一度失われてしまえばそれきりです。従って、椹木は「身体さえ残れば、絵の記憶は再生できる、再現だって不可能ではない」と言いますが、たとえ彼が言うように、記憶だけで絵画の再現が可能だとしても、写真図版と本物の作品の間に越えられない差があるように、オリジナルと再現されたものの間には決定的な質の違いが存在します。ですから、「身体さえ残れば」という考えが肯定されるには、作品が持つ質を問わないということが条件とされなければなりません。実際、ここでは作品の質を問題とすることは、「静穏期に特有に心的な余裕(身体的ではなく)であって、活動期にそれはない」と否定されています。しかし作品の質を問わないということは、作品を作品として見ない。作品が持つ自立的な空間を認めないということです。

「身体」も「絵画」も、「物」であることに変わりはありません。しかし、私たちは普通人間の「身体」を「物」とは考えていません。身体(肉体)を「物」と突き放して見るには、「霊性」という考えが必要となります。では、「絵画」の場合はどうでしょう。「絵画」がものであることに疑いはありません。しかしそれを意味の無い「物」とは見ません。なぜなら、それは人間の意志によって制作されたものであるからです。人間の意志によって作られたものであるから、自然という人間の意志の外側にある世界の不条理さに触れたときに、言葉や絵画という人間の世界の側にあるものが求められることになります。絵画が無意味なもの、詰まらないものと見られるのには、作品の質が問題とされる必要があります。しかし椹木が「自分が死に、絵が残っても、それは単なる抜け殻に過ぎない」と、言うときに問題としているのは、作品の「質」ではありません。そこで問題とされているのは、「私(自分)の死」です。「私の死」を前提に、作品が「抜け殻に過ぎない」と見なされるのですが、この私が死ねば世界は消滅するが、私が生きていれば世界は消滅しない。或いは私が死ねば残された世界に意味はなくなるが、私が生きていれば世界に意味を与えられる、という考え方は所詮、私の中の世界の話です。

たしかに私が死ねば、私にとっての世界は消滅してなくなります。しかし、私ではない「誰か(他者)の死」であったらどうなのでしょう。私ではない誰かが死んだら、この世界から意味はなくなるのでしょうか。もちろん、それが自分の親しい人や愛するべき人の死であったら、この世界から意味が奪われてしまったような大きな喪失感を覚えるでしょう。しかし、それでも世界は在り続けています。なぜなら、この世界はすべての人に与えられているものであるからです。そして人間はその世界の中に、文学や絵画という自立した空間を持っています。しかし椹木は「媒介物だけを取り出して価値の云々ができるのは、静穏期に特有に心的な余裕(身体的ではなく)であって、活動期にそれはない」と、作品の自立性を否定します。しかも、ここでそのことを保証しているのは、「活動期」という緊急性を強調する言葉だけです。ここで言われる緊急性とは地殻運動のことですが、それは多くの人の死を前提にして語られる緊急性であるはずなのに、ここで語られるのは「私の生」であって、「誰か(他者)の死」ではありません。

椹木は「活動期」ということを理由にして、身体を媒介にして「状況に介入する」ことを言います。しかし彼がいう「状況の介入」とは、自然と一体化し、自然に従属することでしかありません。つまり自然に従属してしまえば、全ての問題を自然に帰することが可能ということです。戦後の復興や、バブルの土地神話或いは、原発神話といったものが、地殻が「静穏」であったから可能であったということは、これらが駄目になったのは地殻が「活動期」に入ったせいだからということです。そこで目指されるのは問題の解決ではなく、問題の解消です。震災によって炙り出された問題を無かったことにするのに、これほど都合の良い考えはないでしょう。ここで問題なのは、なぜ問題がなかったことにされるのかというとことです。おそらく、それは戦後の日本の美術がこれまで拠り所にしていきた「中心/周縁」という構造が、カオスというものを想定していないからだと思います。

構造主義というのは本質的に非歴史主義なものであるのですが、「中心/周縁」といった二元論ではカオスというものは所与とされていない訳です。カオスというものがカテゴリー化することが出来ないから、カオスの側に飛び込む。なぜ、美術と自然が一体化するのか、あるいは美術と国家が一体化されて、危機的状況が語られるのかというと、カオスというものをカテゴリー化出来ないから、美術の領域から出ていかざるを得ないのです。一見すると「状況の介入」というのは、これまでと違う状況を求めるための行動に思えますが、実際はこれまでの状況、日本を「悪い場」と考える構造が変わって欲しくない行動なのだと思います。しかし一番の要因は、人間と自然を非対称なものと認識出来ないことです。あれだけの災害を眼にしても、自然と人間が対称的なものとして考えられていることに、大きな問題があると考えます。