風間サチコ 展「没落THIRD FIRE」/無人島プロダクション

『噫!怒涛の閉塞艦』という巨大な木版画が展示されていたのだけれども、これは2005年に制作された『風雲13号地』と対になる作品らしい。おそらく『風雲13号地』で予見されていた大艦巨砲主義で開発一辺倒に突き進む日本の「成長神話」に対する危うさが、原発事故により現実のものとなり、これまで日本の「成長神話」を支えていた「安全神話」 が崩壊したというのが、『噫!怒涛の閉塞艦』の世界なのだと思う。面白いのは『風雲13号地』の舞台となったお台場というのは、幕末に徳川幕府が異国船の侵入に備えて作った砲台(砦)があった場所なのだけれども、安政2年(1855年)の大地震崩れ壊れてしまい、幕府は海防の防衛線を失う。同じように今回地震で壊れたのが、東京から離れていれば安全だろうという発想から田舎の過疎地に作られた原子力発電所で、放射能はあっという間に東京の防衛線を突破してしまったということである。防衛線を突破されてしまったのだから、東京を主戦場とする風間がテーマとするのは「首都防衛」である、と勝手に思う。もちろん撤退戦という選択肢もあるのだけれども、東京(江戸)というのは、学童疎開はあっても、撤退という選択肢が歴史にない街であって、無血開城で全面降伏するか、上野の彰義隊のように壊滅するしかなく、風間の選択も撤退ではない。撤退どころか東北まで視察に来て首都防衛をやる気満々のように見えるのだけれども、風間の作品のジレンマというのは、彼女がどんなに近代批判という観点から、国家や官僚制という制度や枠組みを可視化してみせて、それらが「敵」として認識出来るものにしてみせても、日本というのは枠組みだけあって中身がない国であるので、日本で近代批判というのを突き詰めると、問題なのは制度や枠組みではなくて、実は中身の方、つまり近代的な市民というのが居ないことなのではないの、というところに辿り着いてしまうことである。

風間が作品上で孤独な戦いを続けているのは、日本という国が革命の起こらない国であることと無縁ではないと思う。では、なぜ日本で革命が起きないかといえば、近代的な市民が居ないからですね。近代的な市民が居ないから、どんなに近代の制度や枠組みを可視化してみせても、何も起こらない。何も起こらないから、上野の彰義隊みたいになるぐらいしか道が残らないのだけれども、なんで近代的な市民が居ないのかといえば、近代的な市民になるにはある一定の責任が必要だからですね。江戸で無血開城が可能だったのは勝海舟が偉かったというより、江戸に住んでいる大半の人が政治とは無縁な町人だったからだと思うのだけれども、江戸時代の町人というのは、当然、近代的な市民ではないから、政治とかイデオロギーとは無縁に生きている。同じように現代の東京の市民も江戸時代の町人とたいして変わらずに政治とかイデオロギーとは無縁に生きているというか、責任を放棄して生きていたいと思っている。だから「電気ないと困るでしょう」と言われれば何も言えない。簡単に無血開城して,ごく一部が彰義隊になるぐらいしかない。こうした状況の中で風間が孤独な戦いを続けられるのは、彼女が近代的な個人だからだと思う。近代批判を口にする風間が近代的な個人であるというのは変な話だけれども、風間が選択する漫画的な手法、つまり物語りを設定してそれをデザインしていくという方法が、近代が何であるのかがよく分からないくせに、近代批判を展開して、近代的であることを許さない日本の現代美術の中で、近代的であることが出来る数少ない方法であることは重要な問題であると思う。