所沢ビエンナーレ「引込線」2011(3)

壁面が確保し難い会場であったので、今回も前回と同様に、床面を基準にして展示スペースが各作家に割り当てられていたと思うのですが、今回は2つの会場が共に2階から1階を見下ろせる会場であったので、前回より床面へ視線が向かう作品が多いように思う。ただプールサイドに展示されていた遠藤克利の作品だけは、プールの基礎部分が台座の役割を果たしていたので、視線が上へ向かう作品となっており、この作家の作品にしては泥臭くない、スマートな作品となっていた。

第二会場に展示されていた岡崎乾二郎の作品は、優れた作品とは言えないが、このビエンナーレの性格の表す作品であった。このビエンナーレの性格とはドメスティックであるということである。欧米で開催されるビエンナーレが、ポスト・コロニアルという言葉とは裏腹に、自己の正当性、中心性を確認するために、珍奇でグロテスクなものを、収集、所有しようとする性格を未だに有しているに対して、岡崎のみすぼらしいテーブルの上に置かれた原稿用紙は、このビエンナーレが欧米的な「支配と所有」と無縁なものであることを教えてくれる。内容はあまり覚えていないが(確か小林秀雄の文章が引用されていた)、岡崎の原稿が置かれたテーブルは世界のメタファーではない。それはきわめて国内的で、貧弱であった。しかしグロテスクなものを、自己の正当性や中心性を確認するものとして受け入れて、お祭りとする感性が日本の観客にあるとも思えない。

おそらく文化庁の主催事業となった所沢ビエンナーレは、今後(些かお上品過ぎるかも知れないが)若手の育成の場として地域社会に根付いていくことになると思うのだが、それは日本のビエンナーレのあり方として、悪いことではないと思う。