「物語り」としての日本美術史

前回の所沢ビエンナーレのカタログに掲載させてもらった文章です。こちらの不手際で校正ミスが多く、読み難いものとなっていたので誤記を訂正してあります。アーサー・C・ダントーの『物語としての歴史』は、日本の歴史学に大きな影響を与えた本ですが、何故か美術史の分野では無視された存在となっています。



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「物語り」としての日本美術史
井上幸冶


●はじめに―「物語り」とは何か
 「物語りとしての日本美術史」とは、「日本美術史」というナショナルヒストリーが、これまで如何にして「物語られてきた」のか、そこで何が語られてきたのかを問い直す試みである。ここでは「物語り論(narratology)」或は「歴史の物語り論(narrative theory of history)」と呼ばれる方法をもちいることで*1 、なぜ美術が「歴史」として「物語られる」のか、つまり時間的関係性において把握されなければならなかったのか、その事の意味を、岡倉天心の『日本美術史』を中心に考えてみたい。岡倉天心とは、「日本美術史」という学術的言説のグランド・セオリーを築いた人物である。しかし、彼が講述した『日本美術史』*2は 、「日本」という政治的(若しくは民族的な)共同体の同一性を確保する為のイデオロギーであり、それは一国史的な起源史・成立史として時代に要請され構築された背景をもつものである。岡倉がこのような一国的な始原史を叙述しなければならなかった背景とは、「世界史」に参入するという近代日本の要求のことであるが、ここではその必然性の是非は問わない。ただ美術史が編纂される過程において国民国家と不可分な間係であったという事実には、そこに自己の同一性を脅かす異質な他者を排除・隠蔽させる問題があるということを指摘しておかなければならない。
 この問題とは、美術とは、外来性(他者性)を抜きにして語られるものでないということである。実際、岡倉の『日本美術史』においても、美術の外来性は否定されていない。それらが中国や朝鮮を出自とするものであることは、はっきりと明記されていることなのだが*3 、岡倉の「日本美術史」が、それ以前の言説と決定的に違うところは、それが出自を外にもつことを全く認めないことで日本の美術の独自性を確保する意見でも、出自が外にあることをもって日本の美術には独自性がないとする意見でもなく、二つの別個の出来事を時間的間係において記述することで、「外」に出自をもつものを、「内」に内部化(「日本化」)するという方法を用いている事である。 もちろん「外」の普遍性に対して、「内(日本)」の特殊性を求める国学的な二項対立というのは、岡倉以前にも見られる言説であって、それはたとえば「唐風」対する「国風」といった形で語られてきたものであるのだが、岡倉の言説の新しさというのは、アーサー・C・ダントーの言うところの「二つの別個の時間内に離れた出来事E₁および出来事E₂を指示し、そして指示されたもののうち、より初期の出来事を記述する 」*4という、つまり「物語り文(narrative sentence)」であるということである。
 ここで言う「物語り文」とは、たとえば「大陸から伝来した仏教美術」という過去の出来事E₁と、その後に起きる「運慶の彫刻」という過去の出来事E₂とを結びつけることで、そこから「大陸から伝来した仏教美術は、運慶の彫刻によって日本独自の仏教美術として開花した」と言った様な解釈を導き出す行為のことであるのだが、ここでは過去の出来事E₁と、その後に起こる過去の出来事E₂という。本来なら時間的に離れた別個の出来事を同一の事象と見なす因果論をもって、「日本独自の仏教美術の開花」といった歴史的出来事が記述されているのである。一見するとこの様な発話は当たり前と思われるかも知れない。しかし、美術を時間的統一体で物語る手段を持たなかった或は、必要としていなかったということは、それ以前においてはこのような語り口はなかったという事なのである。


●天心の語り―忘却される他者
  『日本美術史』における岡倉の言説の特徴は、「物語り文」をもちいて、日本の美術を一つの時間的統一体と把握することで、そこから日本の美術の特殊性・固有性を物語る方法を確立するところにあるのだが、特出するべきは、「始まり−中間−終わり」という「物語り」を構成とする因果関係の三項を、それぞれ「ギリシア−中国−日本」と言った空間的条件*5 に置き換えることで、「中国」という「他者」を忘却していることである。「始まり−中間−終わり」という「物語り」を構成する基本構造(時間的構造)を、それぞれ「ギリシア−中国−日本」という空間条件に置き換えることの意義とは何か。それは「ギリシア」と「日本」という空間的に離れた別個のものを、出来事E₁、出来事E₂という、二つの別個の時間内に離れた出来事過去として語ることで(つまり「ギリシア−日本」という「始まり−終わり」を指示する文を構成することで)、中国というこれまで日本が歴史的所与とするしかなかった圧倒的に優越する他者を指示することなく、自己の「来歴」を語ることを可能とする事である*6
 もっとも岡倉が、このような巨視的な視線を手に入れるには、アーネスト・フェノロサの存在が不可欠であった。特に、フェノロサ法隆寺夢殿の救世観音から「ギリシア」を見出し、「ギリシア仏教美術」と定義したエピソードは重要なエポックである*7 。「日本美術史」という言説は、中国という圧倒的に優越する他者を外から眺めることを可能とする視線を手に入れることで編纂されるものである。なぜなら、それは徹底的に「中国」との差別化によって成立しているものであるからだ。しかし、「美術」という西欧に於いて成立した概念を、日本固有のものとし、それを「日本」という政治的・民族的共同体の連続性を保証するアイデンティティとして語るには、中国という他者を忘却するだけでは過不足である。「日本美術史」という学術的言説が成立するには、中国に換わる新たな他者である西欧に大きく依拠しながらも、西欧のそれとは違う「日本固有の美術」という理念の創出が必要とされることになる。
 岡倉が中国という先行する「他者」の「痕跡」を「自己」と読み直す行為として、「ギリシア」と「日本」という空間的に離れた別個のものを、出来事E₁、出来事E₂という。本来なら二つの別個の時間内に離れた出来事を結び付けて、一つの歴史的出来事として語ることを可能とする「物語り文」を用いていることは、先に記した通りである。では、西欧近代という新たに登場した先行する「他者」は、どの様にして「自己」と読み換えられていくのだろうか。正直、この問いに対しては、岡倉の主眼というのはあくまでも中国との差別化にあるのであって、西欧に対しては「世界史」の参入という目的意識はあっても、積極的にそこからの差別化を計る意識というのは、たとえば岡倉は「アジアは一つ」といった西欧に対抗した概念を語ってはいるが薄いと思われる。*8 ただ次の点だけは指摘しておきたい。それは何かと言うと、ここでは美術という外に出自をもつものに先行して、「人種の境遇」、つまり「北は寒地の景況あり、南は熱帯に彷彿たりといえども、内地おおむね気候温和にして山水明媚、四海環境、その景画のごとく、風物変化の雑多なる 」*9と表現される日本列島の地理的(風土的)条件が、美術を論じるさいの先行条件として措定されているということである *10
 具体的に言うと、それは「美術」という西欧に於いて成立した概念を、人類共通の「物語」として語ることを可能とするために、岡倉が『日本美術史』の中で、「装飾」「建築」「絵画・彫刻」の起源を語り、これ以降の段階を「人種の境遇」「人種の能力」による違いによるものだと選別していることである *11。ここで重要なのは、美術の先験性を語ることで、美術の優劣(或は多様性)とは、「人種の境遇」「人種の能力」によって決定されるものと見なされ、そこから「西欧の普遍性」に対しての「日本の特殊性」という言説が打ち立てられていることである。しかし、美術が先験的なものであるとしたら、それは空間的な違いを超えて全てが共通なものであらなければならないはずであるし、時間的な系統関係においても因果論として語られることを拒むものでなければならないはずである。しかし、ここではあらゆる出来事に先行して「人種の境遇」という地理的(或は風土的)条件が措定され、最終的には「大和民族」の所与として与えられている「人種の能力」(「天賦の能」)をもって、外来性を固有性(日本化)と語ることを可能とする因果論が展開されている。従って、空間に規定された同一性から求められる日本の特殊性とは、日本の固有性が「ある」「ない」(或は「あらねばならない」)いずれにしろ、そこには常に西欧の普遍性に対する否定が「ない」という反語として存在していると言わなければならない。


●天心以後―構造へ逃避する言説
 美術が「ある/ない」とは、「ある」という「他者像」(西欧)に対応して形成される「ない」という「自己像」(日本)の事である。従って、「ある/ない」を「原因(外来)/結果(土着)」と捉えるということは、本来ならそれは時間的間係性の中で「成熟/未成熟」と理解され問われるべき問題である。しかし「ない」ということが、「西欧」という相関的な他者像から形成される己の(「日本」の)自己像であることが認識されずにいると、美術はただ悪戯に矮小化されて、「ない」という物理的な結果だけが叫ばれことになる。事実、岡倉においては、美術が「ある/ない」という議論は、二つの別個の出来事を時間的関係性の中で考察・記述されていたので(良し悪しは別として)、「あるのか/ないのか」という固有性を巡るものだけの平坦な議論に陥ることだけは回避されていたと言うことが出来るのだが、今日の美術を時間的統一体として語ることを拒否した反歴史的な言説においては、歴史の「断絶」ということが強調され、そこから時間的関係性が排除されているので、彫刻が「ある/ない」或は、絵画が「ある/ない」といった。美術の「固有性」を巡る問題しか議論の対象とならないのである *12
 このような歴史否定は一見すると、従来の正史を追認することを拒否している態度の様に見えるかも知れない。しかし、従来の正史が自己の同一性を確保する為に圧制・隠蔽してきた過去がそこで暴かれているのかというと、その様なことはない。多くの場合が、ただ歴史が断絶する以前にあったと思われる自己の本来の姿を夢想しているだけである。そこではこの様な状態を生み出したと思われる制度の属性を、個人の意識の属性と結び付けることで事態の解消が望まれるのだが、問題なのは、歴史を否定することで「他者」が忘却されていくことである。たとえば椹木野衣は、日本の美術を「悪い場」という空間に規定してみせるが*13 、そこでは岡倉のように時間軸を導入することで、自己の同一性を脅かす「他者」を忘却していくのではなく(「他者」の「痕跡」を「自己」と読み直すのではなく)、歴史そのものを否定することで、自己の同一性を脅かす「他者」が忘却されていく。椹木の非歴史的な「場」として提示される「悪い場」とは *14、歴史を否定することで、克服しなければならない他者を否定・忘却していく「場」のことである。
 そこでは自己を形成する相関的な「他者」ではなく、「悪い場」という空間に規定された「主体」を先行措定することで自己の同一性が確保されることになる。つまり、些か逆説的かも知れないが、「悪い場」とは、「外部」(他者)を必要としない「円環」であるので、その一つの価値体系の内部で「私」の再生(「リセット」)がなされている限りにおいて、そこは安住の「場」(良い場)なのである。なぜなら、その「円環」の中で、自己を脅かす他者を忘却してしまえば、自己を脅かす他者との「境界性」が発生する危険性はないからである*15。しかし、「内/外」という構造に逃避して、自らを「中心」(西欧)に対しての「周縁者」と規定してしまえば、「私」という主体性は確保することが出来るかも知れないが 、それは異質的な他者を排除することによって生じる意味の空白化でしかない。

 
 ●美術という「不可避の他者」―「物語り」の可能性
 思うに日本の美術の問題点とは、明治の近代化以降常に美術の「自立性」を目指さずことよりも、「日本の美術」という「固有性」を確立することを優先事項として、「オリジナルティー」や「美術」が、何であるのかを問うときに避けることが出来ない「他者」を、「それが何であるか」を問うことをせずに、「日本の美術」という特殊性(固有性)を形成することを目指す言説が隠蔽し続けて来たことにあるのではないか。実際、昨今の自らを「中心」(西欧)に対しての「周縁」と規定する構造から、己を「周縁者」「異端者」であると叫ぶことが、あたかも美術である或は作家であるという異常な状況というのは、言説が、それだけ構造に逃避して安住しているということの証である。しかし「美術」とは、子安宣邦の『漢字論』*16 に倣っていえば、それは避けることの出来ない「不可避の他者」なのであり、「他者」を前提としない「自己」がないように、「美術」という「他者」も、それを「不可避の他者」として認識されない限り、私たちはそれが「何であるのか」を知ることも、それを「自己」として語ることも出来ないのである。今、求められているのは、歴史を否定することで他者を忘却することでなく、美術を「不可避の他者」と認識することで、美術を、他者に開かれた「物語り」として物語ることである。

*1:ここでは野家啓一に倣って、「物語(story)」と、「物語り(narrative)」を区分して、果たして「日本美術史」という言説は、「完結した言語構造体としての「物語」」なのか、それとも「他者へ向けられた言語行為としての「物語り」」であるのかを問いたいと思う。野家啓一『物語の哲学』(岩波書店、2005年、358頁)を参照。

*2:岡倉天心は「日本美術史」の講義を、明治二十三年から三年間に渡って東京美術学校において行っている。

*3:たとえば次の箇所。「実にわが邦美術の原因は、その大部分ほとんど外国より来れりというもおそらく不可なからん」岡倉天心『日本美術史』(平凡社ライブラリー、2001年、25頁)

*4:アーサー・C・ダントー河本英夫訳『物語としての歴史−歴史の分析哲学』(国文社、 1989年、185頁)

*5:空間化ということでいうと、岡倉の『日本美術史』には、美術史をリスト化(分類化)して、視覚的に空間に固定しようとする特徴が見られる。

*6:ギリシア」を対置することで、「中国・朝鮮」からの影響を無化しようとする論は、岡倉だけでなく、たとえば和辻哲郎の言説などにも見られるものである。

*7:フェノロサの夢殿観音発見は、後に「ヘレニズム東漸」という議論を生むが、そこに西欧から日本を射程する眼差しが内在していたことは重要である。

*8:岡倉の「アジアは一なり」という「西欧」に対抗する概念とは、実は、西欧でなくアジアを日本的オリエンタリズムで射程する視線であって、その視線が捉えているのは、近代日本の先進性を証明する後進中国であると認識されるべきものである。子安宣邦『「アジア」はどう語られてきたか』(藤原書店、2003年)を参照。

*9:岡倉天心『日本美術史』(平凡社ライブラリー、2001年、18頁)

*10:ここで注目すべきは、「四海環境」という地理的境界線が設けられることで、大陸(中国)と半島(朝鮮)からの離脱がなされ。「日本」という主体の境界線が確保されるのと同時に、岡倉が人類共通のナラティヴ(物語り)として語った美術の古の地平からの離脱も完了され。そこから「日本美術史」という「大きな物語」の叙述がされることである。

*11:岡倉天心『日本美術史』(平凡社ライブラリー、2001年、17頁―21頁)

*12:たとえば千葉成夫の『未生の日本美術史』(昌文社、2006年)では、「何が美術たりうるのか」と、「何が日本の美術たりうるのか」という問いが混同されたまま、国学的な二公対立で、「内」を問い続けることが、あくまでも美術の「なかみ(本質)」を問うことであるとされ、「外(他者)」でなく、「内(自己)」を問うことの絶対化が主張されて、固有性の確保が目指されているのだが、ここには「もの派」の正当性が語られる時に、それ以前の日本美術に対する「大陸(中国)」と「半島(朝鮮)」からの「渡来性」に対する「模倣・追従」という批判から判断したならば十分に「模倣・追従」と批判するに足りる李禹煥の存在が、「西欧」という新たな批判の対象の影に隠蔽され不問にされてしまうという、美術の固有性を風土(国土)に規定して求める行為が抱える矛盾と問題が見られる。

*13:椹木野衣『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)

*14:『日本・現代・美術』の中で椹木は、自己の非歴史的な立場を強調するのに、千葉成夫の『現代美術逸脱史』(昌文社、1986年)に、歴史として「現代美術史」を形成しようとする動機があると見ているが、千葉の『逸脱史』に見られるのは、「固有性」への志向であって、「歴史」ではない。

*15:「境界性」とは、上野千鶴子の『構造主義の冒険』を参照して言えば、「境界性とは、ジンメルの異人論以来、多元的な価値体系の「境界」にいる状態をさす概念であり、そこでは複数の価値体系間の競合が問題である」とされるもので、これに対して「周縁性」とは「統合の中心からの距離、統合度の低さを意味する」ものと理解されるものである。上野千鶴子構造主義の冒険』(勁草書房、1985年、63頁)参照。

*16:子安宣邦『漢字論−不可避の他者』(岩波書店、2003年)