所沢ビエンナーレ「引込線」2011(1)

 東北から関東に来ると、作品を制作して発表することが、ごく当たり前に行われているのでちょっと戸惑います。戸惑うというのはどういうことかというと、被災地との距離が意識されないまま、「3・11後の美術」という言葉が独り歩きしているように思えてしまうということです。もちろん震災について無関心な作家などいないと思うのですが、作品を展示する空間を確保することが困難な会場で(特に壁面)、会場(建築)に依拠しない、自立した作品を目指した作家がどれだけいたかは疑問です。大半の作家が特殊な会場に依拠しながら、いかにこの特殊な条件を上手く利用するか、演出するか、そのことによって自分の能力を見せ付けるという考えしか無かったのではないでしょうか。もちろん忘れられていた空間を演出し、再発見させることは悪いことではありません。しかし建築(擬似廃墟)に夢中になり、そこに依拠してしまうというのは、これまで通りの日常性を前提にした考えであって、震災後の美術に求められているものだとは思えません。正直、前回のビエンナーレと比べると、パワー・ダウンしたように見えるのですが、それは会場が手狭になったからではなく、これまでと変わらぬ日常性を前提として作品が制作されているのに、そのことが作家に意識されていないからだと思います。