所沢ビエンナーレ「引込線」2011(2)

「3・11以後の美術」という幻想

所沢ビエンナーレがどうのこうのという事ではないのですけれど、関東に来て思ったのは、おそらくいろんな人が「3・11以後の美術」について、いろいろと語っているのだろうけれど、日本の美術はこれまで通り何も変わらないのだろうなということです。結局、危機的状況を語らなければ何も語れない人たちが、これ幸いと「3・11」という言葉を消費するだけで、これまで通りそれは問題化されることなく終わるのだと思います。なぜ問題化されないかというと、誰もそれを直視しないからです。この国のアーティストの腰の重さの凄いところは、直視したくないという本心を隠すための言い訳、たとえば何れ作品は追いつくなどという言い訳を思いつくことだけは一流に早いということです。何れ追いつくというのは、それを問題化し掘り下げる覚悟がある者が口にするべき言葉であると思うのですが、そうしたことをはじめから拒否している人たちが平然とそうした言葉を口にするのです。
私の周りには今回の大震災を「3・11」と呼ぶ人は一人もいないのですが、白河以南の人たちは「3・11」という呼称に何も抵抗を感じていないようです。