「バルティス」展/東京都美術館

少女愛」や「古典」との関係性が強調されて語られることが多い作家だが、種村季弘が『魔術的リアリズム』(PARUKO出版)の中で、マネキンを描いたデ・キリコの絵画の延長線上に、バルティスの硬直した人物たちを見ていたことを思い出せば、バルティスの絵画から20世紀の同時代性を読み取ることは、それほど難しいことではない。日本でバルティスの同時代性が無視され、反時代性(反近代)という観点から作品が受容、神話化されようとするのは、おそらく種村が言うところの「魔術的リアリズム」。つまり、人間であろうと風景であろうと、全てが「機械」として描かれていくリアリズムが生まれる背景に、ヨーロッパにおける第一次世界大戦後の人形ブームがあることが、日本ではほとんど理解されていないからである。

エリック・ホブズホーム(『20世紀の歴史‐極端な時代』)に倣って、20世紀の始まりを第一次世界大戦に求めて、美術史を見直してみると、キリコの形而上絵画や、マルセル・デュシャンの「大ガラス」といった人形、機械に対する趣向性の強い作品がいずれも一次世界大戦が勃発した後に制作され始めていることに気が付く。さながら20世紀美術は人形の世紀であるのだが、ここで20世紀を人形の世紀として規定するのは、笠井潔(『人間の消失・小説の変貌』)が指摘するように、第一次世界大戦による大量破壊と大量虐殺によって、19世紀的な人間観(啓蒙主義)に終わりが告げられたからである。しかし第一次世界大戦を「対岸の火事」としてしか理解しなかった日本では、第一次世界大戦がもたらした精神的危機は今日でも理解されているとは言い難い。

バルティスの描く無表情な人物たちは「機械人形」である。問題の「少女」たちも、「人形」(操り人形)と理解すれば、そのアクロバティックな姿勢も理解し易い。たとえば『夢見るテレーズ』において、壁面のストライプ(縞模様)と、少女の動作が重なり合い、操り人形のように見えるのは偶然だろうか。「少女=人形」という図式には、何処かデカルトの人形(フランシーヌ)を想起させるものがあるが、画家の「宗教画」という言葉に反応して反時代性(反近代)を言う人たちは、デカルトにおいては合理的思考の追求と信仰が矛盾していなかったことを思い出すべきではないのか。

「宗教」を排除したところに、「近代」が成立しているというのは、日本の近代化過程の中で作られた意図的な神話である。排除ではなく、両者は棲み分けしていると考えなければ、たとえば戦後のアメリカ美術も理解出来ないだろう。もし、「カトリック」「宗教画」という画家の言葉を問題とするのなら、バルティスの作品には、反宗教改革後のカトリック美術の特徴である「演劇的感受性」のうち、演劇性しか認められないことだろう。バルティスの演劇との親和性は、その経歴や作品から十分に読み取れることが出来るが、機械のように描かれる無表情な人物から感受性を読み取ることは難しい。

たとえばバロックの代表的な彫刻家であるベルニーニの『福者ルドヴィカ・アルベルトーニ』と、バルティスの描く少女たちを比較すると、際立つのは肉体の貧弱さよりも表情の無さである。驚くのは、バルティスの絵画では、場合によっては「光」によって表情が描き消され、表情を描くことが回避されていることである。バルティスの表情を描くことを回避する姿勢は、プロテスタント圏の画家、たとえばフリードリヒが後ろ向きの人物を描くことで、人物の表情を描くリスクを避けていた姿勢に通じるものがあると感じるのだが、バロック美術の恍惚な表情よりも、無表情な少女(人形)の裸体がスキャンダルと感じるのは、現代が人形の時代であるからなのか、それともそれが人形であると気づかれていないからなのか、どちらであるのだろうか。