「ゴッホ展 空白のパリ時代を追う」/宮城県美術館

ゴッホのパリ時代(1886〜88年)を焦点とした展覧会であるので、晩年の狂気じみた作品は出品されていないが、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館が所蔵するパリ時代の作品郡は十分に見る価値があったと思う。気になったのは石膏像(トルソ)を描いた油彩画。男性のトルソ1点と、女性(ヴィーナス)のトルソを描いたものが4点出品されていたが、驚いたのは石膏とはいえ女性の豊満な体、曲線を、ゴッホがモチーフとしていたことである。4点とも青を背景としているが、1886年に描かれた2作品(「ヴィーナスのトルソ」)が、グレース基調の色彩と絵具の厚みで石膏像のヴォリューム感を表現しようとしているのに対して、1887年に描かれた2点(「女性のトルソ」)は、薄塗りで陰影部に緑と赤が使われているという違いが見て取れる。おそらく87年に制作された2点には、色彩によってヴォリューム感を表現しよという試みがあったのだと思われる。石膏像なのでオーカー系の色こそ使われていないが、上に塗り重ねればかなり生きた人間の肌色に近づくと思われる。ゴッホの人物画に見られる、緑(ヴィリジアン)、赤(バーミリオン)、黄(イエローオーカー)の組み合わせは、ヴェルダッチョという人体のヴォリューム感を表現するフレスコ画の技法を思いおこさせるが、もちろんゴッホは下地を作りその上に彩色するようなことはしていないので両者は同じではない。

ゴッホの絵画で問題となっているのは常に色彩についてである。それ以外の点は初期のオランダ時代からあまり変わりが見られない。いろいろな試行錯誤は成されているのだが、対象をどう捉え描くか(デッサンするか)ということは、かなり早い段階で確立されている。従って、下手な絵というものは描き方が分からない絵のことだと規定すれば、描き方が確立されているゴッホの絵は下手な絵ではない。実際、ゴッホはオランダ時代から十分に見せる絵画を描いている。ただ自画像が良い例であるのだけれど、作品のサイズに関係なく同じ描き方がなされているので些か呆れる。作品のサイズに関係なく、鼻の処理の仕方、服の描き方が同じなのである。小さい作品であるのだから、簡単に一筆で表現すればよいよう服の表現なども、大きい作品と同じだけの手数のタッチ(というかハッチング)で描かれている。

オランダ時代とそれ以後の違いは何かといえば、やはり色彩である。契機となっているのは印象派及び後期印象派の存在であるのだろうけれど、ゴッホ印象派後期印象派の理論をどこまで理解していたかはかなり疑問である。印象派的に明るい色彩を用いて描かれた作品(「サン・ピエール広場を散歩する恋人たち」)はあっても、それは印象派の絵のように明るい絵画ではない。モネと同じようにセーヌを描いてみても(「セーヌ河岸」)、ゴッホの眼にはモネのように水面に映る光(色彩)が知覚されていないのである。もっとも印象派の絵画をただ明るいだけで光がないというゴッホの作品が、印象派的な絵画でないのは当たり前かも知れない。そもそもモネとゴッホでは色彩と光の定義が始めから違うのである。

ゴッホの絵画に見られる色彩の問題は、印象派のように自然光の条件に左右されるものでない。光というものが内面的で多分に信仰的な世界に存在するゴッホにとって重要なのは、自然光の条件に左右されない色彩、絵具という物質と一体化した色彩であった。そしてそこにゴッホの絵画の暴力性がある。ゴッホの絵画の暴力性とは色彩を物質として提示するだけでなく、それを肯定してみせたことである。なぜそれが暴力的かというと、キリスト教世界でクロモクラスム(色彩破壊論)が起きたのは、色彩を光ではなくものを覆う物質とする考えがあったからである。そこで色彩が肯定されるには、色彩を物質ではなく光とみなす必要性があった。ところがゴッホは色彩の物質性を否定すべきものとしてではなく、肯定すべきものとして提示するのである。ここで些か話が複雑になるのは、ゴッホが育ち且つ牧師になることを望んだプロテスタント的環境とは、色彩の物質性を非難・攻撃した大元であっても、決してその物質性を肯定する環境ではなかったことである。もっともゴッホの暗いと同時に明るい絵を求める心情は、この辺に由来するものなのかも知れない。