ゴッホが色彩を肯定するまでの美術史

クロモクラスム(色彩破壊論)と呼ばれる西欧のキリスト教社会における色彩を巡る論争には長い歴史がある。否定派は「神性」を可視的なものとして表現することは出来ないという立場から、色彩を不道徳で虚栄なものと断罪するが、肯定派は色彩を物質ではなく光(神)に属するものという立場から、それを「聖なる」ものと見る。ここで重要なのは論点が色彩を物質とみるか、それとも非物質とみるかにあることである。

美術史において色彩のあり方が大きく変わったのはゴッシク様式が登場する13世紀である。建築様式がそれ以前(ロマネスク)の壁体構造から、支柱などの骨組みによって構成されるゴシック様式に移行することによって、ステンドグラスという「光の壁」が出現し、光(色彩)に対する熱望が強まる。それは建物自体を窓枠として意識させてしまうほどであったが、ここで牽引的な役割を果たしたのがサン・ドニ修道院を中心としたクリュニー派の人々であった。

クリュニー派に対して、否定派のシトー派が存在したが、染色科学の発達などにより、この時代以降、色のスペクトルは多様化し、色彩の区別もより精密化していく。彩色写本に祭壇画、いたるところに色彩が溢れていた。肯定派の人々にとって、もっとも危機的な状況であったのがルターの登場である。文字通り色彩破壊運動が起きたのであるが、象徴的なのは活版印刷の登場により、聖書が光り輝く書物(彩色写本)から、モノクロの印刷物に変わったことである。

16世紀以降、作品が破棄されるかも知れないというリスクから、プロテスタント圏に住む作家達が色彩の使用に対して慎重であったとしても何ら不思議はない。では、ゴッホはどうか。もちろんゴッホプロテスタント的環境で育ったことだけをもって、この問いが成立するとは思わない。しかし、ゴッホの絵画の問題とは、いかに色彩を肯定するかという問題であったのではないのか。

たとえばゴッホの「画家は自然の色から出発するかわりに、パレットの色から出発すればうまくゆくのだ」という言葉。ここにある印象派に対する批判とは、色彩が物質ではなく、光の側に属するとする態度である。たとえばモネの連作(「藁積み」「大聖堂」)では、時間の経緯と共に移ろい行く色彩が描かれているが、色彩が自然光の条件(時間)によって変化するとは、色彩が藁や大聖堂という物質の側に属するものではなく、光という非物質的なものの側に属し、その条件に左右されることを意味する。

印象派が固有色に縛られることなく、そこから自由になっていくのは、色彩と光の同一性に対する信頼からである。モネにとって光の追求とは、疑いもなく色彩の追求を意味した。しかしゴッホの態度はこれとは違う。ゴッホにとって色彩とは自然光の条件に左右されるものではなかった。ゴッホにとって色彩とはパレットの上にある絵具そのものであった。絵具という物質が色彩であるのだから、それは自然光に従属するものではない。おそらく色彩を肯定するのに、色彩の物質性を持ち出したのはゴッホが始めてである。そしてそこにゴッホの絵画の暴力性があると思うのだが、もしかしたらゴッホにとって色彩とは光に見捨てられた存在であったのかも知れない。