気仙沼

椹木野衣「五百羅漢とは誰か」(『美術手帳』2012.4月号)

カタールまで村上隆の個展を見に行っているのは凄いことだと思うが、肝心の作品については、ほとんど何も語られていない。何故、語られるのが「作品」ではなく「作家」なのか。観者が求めるのは「作品」と対峙することであって、「作家」と対峙することでは…

美術教育を批判していれば現代美術になる

日本の美術教育に問題があるのは確かだけれど、一番の問題は、現役の学生でもない人達、もう美術学校を卒業して何十年も経つ人達が延々と美術教育に対する批判を言い続けていること。何故、現役の学生でもない人達が美術教育にたいする批判を言い続けるのか…

椹木野依批判

椹木野衣「地質活動期の美術」(二)椹木野衣「地質活動期の美術」(『文學界』2012.3月号)。椹木の「絵画の体験は、僕ら個々、身体の側にあって、火事場で救うべきは物などではなく、この身体なのだ」という比喩のおかしさは、「身体」も絵画と同じく、「…

椹木野衣「地質活動期の美術」(『文學界』2012年3月号)

椹木はここで戦後の日本の復興を支えていたのは、日本人の勤勉さでも、日米同盟でもなく、これまで「静穏であったがために見えなかった、地質学的な条件」によるものであったとして、これまで使われていた「戦後」という歴史区分の失効を宣言し、新たに地質…

船戸与一『蝦夷地別件』(全3巻/新潮文庫)

1789年に国後・目梨で起きたアイヌの蜂起を題材とした歴史小説。とにかく面白いのだが、驚かされるのはマホウスキーというポーランド人貴族が登場することで、蝦夷の辺地で起こる出来事が世界史とリンクしていることである。マウスキーの役割は、祖国ポーラ…

『美術手帳』(2012.2月号)

『美術手帳』(2012.2月号)の「松井冬子」特集記事。この人に欠けていると思われるもの、宗教的感受性。宗教的感性がない人が、腐乱した死体を、どんなに克明に描いてみせても標本図にしかならない。たとえば日本語では死体のことを「なきがら」ともいうが…

『美術手帳』(2012年1月号)村上隆インタヴュー記事(2)。この人の不思議あるいは、特徴は父親的なものに対する懐疑のなさ。なぜか大人になっても父親の言葉に実証的分析が加えられない。例えば、ここでは父親の言葉として、「いや、日本もやったんだ。一…

『美術手帳』(2012年1月号)

『美術手帳』(2012年1月号)の村上隆インタヴュー記事。村上はここで福沢諭吉の「一身の独立なくして一国の独立なし」という言葉を引き合いにしながら、人が依拠する「国」というフレームの有無、明確さが日本と欧米の「アート」の力の差であるとして、戦後…

中村和雄「引込線と現代美術」(『所沢ビエンナーレ美術展2011カタログ』)

「引込線」という展覧会タイトルから、作家の活動には少なからず「ひきこもり」的要素があることが指摘され、そこから昨今の美術界の商業主義の流れに対しての警鐘が語られているのだけれど、好感を覚えるのは社会から隔絶してひきこもるという行為の葛藤、…

『ゴヤ 光と影』/国立西洋美術館

『着衣のマハ』が目玉作品のようだったけれど、個人的には『マハ』よりも『赤い礼服の国王カルロス4世』や、『カルロス4世家族』の為の習作と思われる『マリア・ホセファ内親王』『スペイン王子フランシスコ・デ・パウラ・アントニオの肖像』といった、こ…

『南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎』/サントリー美術館

ここでいう「光と影」は、王権と法王権の対立と考えると理解が進むかと思う。どちらが光で、どちらが影なのかということは、当事者からしたら常に自分たちの側が光で、相手方が影となることなので、あまり真剣に考えても仕方のないことなのだけれど、歴史的…

11月11日 曇り震災から8ヶ月。震災当初、震災とは自分が経験した大きな「揺れ」のことであり、それが震災についての全てであった。しかし震災とは、自身の身体的な経験を意味するものなどではなく、人間の日常的倫理・道徳を超えた自然に、人間がいかに…

『トゥールーズ・ロートレック』展/三菱1号館美術館

ロートレックのリトグラフには、どこかドミーエの風刺画を思いおこさせるものがある。しかしロートレックが描く人物は、ドミーエのような形体をデフォルメすることで、人物の内面や本性を戯画(カリカチュア)することを目的としたものではない。それは劇場…

被災地から考える

東京で震災の話しをすると、必ず最後に「原発」の話しを持ち出されて、それまで話していた自然(災害)について話が、原発事故という人為的な世界の出来事に集約、回収されてしまう。もちろん、それはそれだけ原発が深刻な状況にあるからなのだけれど、 震災を…

10月12日 秋晴れ石巻。瓦礫が片付けられ、建物が解体され、更地が広がる。人々の生死を分けたと思われる高台から、海岸線にゴミの山が築きあげられ、それが何キロも続いているのが見える。瓦礫が片付けられ、建物が解体され、更地が広がることで、心を抉…

10月11日 晴れ震災から7ヶ月。お昼に小さな地震。椅子に座っていたので揺れに気づいたのだけれど、そうでなければ絶対に気づくことはなかったと思う。 季節外れの朝顔が家のベランダに咲いていた。

10月10日 晴れお昼前にやや大きめの地震。幸い何事もなかったのだが、下からの突き上げ方と、大きな地響きが、3月の巨大地震を思いおこさせるものであったので、かなり緊張を強いられた。ここ数日巨大地震と津波の夢ばかり見ていたのだが、実際に巨大な…

『モダン・アート、アメリカン』展/(2)

エドワード・ホッパー『都会に近づく』不思議な作品。画面の上半分だけを見たら何の取り柄もない都会の風景が描かれているのだけれど、周到に視線の逃げ場が消されているので、視線は画面下半分に描かれているレールの線に導かれて、地下鉄の入り口に向かう…

『モダン・アート、アメリカン−珠玉のフィルップス・コレクション−』展/新国立美術館

エドワード・ホッパー『日曜日』画面手前にある鋭角な三角形の斜辺の上に男が一人座っている。背景に建物が描かれているのに、どこか不安定な感じ、画面を支えている均等が崩れそうな危うさを感じるのは、この三角形のせいだろうか。よく見ると画面上辺にも…

10月2日 曇り 柏崎

TRICOLORE

9月25日 秋晴れご縁あって石巻のトリコローレ音楽祭のお手伝いをさせてもらいました。石巻の現実の困難さというものが、部外者である自分にどれぐらい理解出来たかは分かりませんが、想像もつかないような大変な思いをされた方々たちがみな優しく、そして…

所沢ビエンナーレ「引込線」2011(3)

壁面が確保し難い会場であったので、今回も前回と同様に、床面を基準にして展示スペースが各作家に割り当てられていたと思うのですが、今回は2つの会場が共に2階から1階を見下ろせる会場であったので、前回より床面へ視線が向かう作品が多いように思う。…

「物語り」としての日本美術史

前回の所沢ビエンナーレのカタログに掲載させてもらった文章です。こちらの不手際で校正ミスが多く、読み難いものとなっていたので誤記を訂正してあります。アーサー・C・ダントーの『物語としての歴史』は、日本の歴史学に大きな影響を与えた本ですが、何故…

『没後100年 菱田春草展』長野県信濃美術館

線描を排しているからなのか、日本画にしては近視的な作品になっておらず、遠くから離れても見られる絵画となっているので好感は持てる。気がついたのは、当初は春や秋といった季節が主題に選ばれ描かれていたのが、徐々に、夕刻や朝日あるいは、月夜といっ…

『芸術新潮』(2011.9号)

『芸術新潮』の最新号に、「ニッポンの「かわいい」はにわからハローキティまで」という特集が組まれているが、ハローキティが、世界的に人気があるキャラクターであることを理由に、美術史を単純化して、「かわいい」というのが、古来より不変にある日本の…

9月11日 快晴震災から半年。戸隠バードラインにある南登山口から、飯縄神社(飯縄権現)に向かい、参拝。

所沢ビエンナーレ「引込線」2011(2)

「3・11以後の美術」という幻想 所沢ビエンナーレがどうのこうのという事ではないのですけれど、関東に来て思ったのは、おそらくいろんな人が「3・11以後の美術」について、いろいろと語っているのだろうけれど、日本の美術はこれまで通り何も変わらないのだ…

所沢ビエンナーレ「引込線」2011(1)

東北から関東に来ると、作品を制作して発表することが、ごく当たり前に行われているのでちょっと戸惑います。戸惑うというのはどういうことかというと、被災地との距離が意識されないまま、「3・11後の美術」という言葉が独り歩きしているように思えてしまう…

所沢ビエンナーレ「引込線」2011

所沢ビエンナーレのホームページの方に、カタログ掲載論文のタイトルが公開されています。 http://tokorozawa-biennial.com/writer.html井上は「美術と自然−なぜ日本の美術は原始回帰するのか−」という文章を書いています。「美術と自然」を問題にしているの…