被災地から考える

東京で震災の話しをすると、必ず最後に「原発」の話しを持ち出されて、それまで話していた自然(災害)について話が、原発事故という人為的な世界の出来事に集約、回収されてしまう。もちろん、それはそれだけ原発が深刻な状況にあるからなのだけれど、 震災を原発という人為的な世界の出来事に回収して理解している人たちというのは、私からすると世界(自然)の本当の恐ろしさを経験していない人たちです。
もちろん東京でも非常に大きな揺れがあって、多くの人たちがそれを経験し、またテレビでショッキングな映像を目にしていると思うのだけれど、本能的にそこから逃げ出したくなるような世界の恐ろしさは知らないし、経験していないのだと思います。ここでいう「恐ろしさ」というのは、たとえば『古事記』に黄泉の国に旅立ったイザナミイザナギが追いかけ、そこで「見てはならない」という黄泉の国の禁を破って、イザナミの死した姿を眼にしてしまい、あまりの恐怖にイザナギは逃げ出すことしか出来なかったという話がありますが、まさにこれと同じ恐怖、自分が異界に入り込んでしまった、死の世界を覗いてしまったという恐ろしさのことです。
たとえば仙台でも沿岸部に行くと、工場のプランとから流されてきたと思われる巨大な鉄の塊が、ちょうど映画『2001年宇宙の旅』に出てきたモノリスのように、あちらこちらに転がっているのですが、そうしたものを見ると、それがどういう意味でそこにあるのかは分かりませんが、人為的でない世界について考えざるを得ないわけです。ところが東京に行くと、自然というものが一切出てこない。多くの人が自然については、仕方ないと「あきらめている」訳です。
しかし「あきらめる」というのは、この世界を客観的に認識し、そこから主体的な自己認識、人間認識をするという行為をあきらめる、放棄することでしかありません。多くの人がこの世界(自然)を「無常」で「仕方ない」ものと「あきらめ」て、自己や他者の「苦」あるいは、「悲しみ」を自覚すること、内省的に反省することを拒否しています。世界(自然)と人間を未分化なものと見なし、自然を直視すること、自然の独立性を認めずにいるのです。