産経ニュース:「通行人もびっくり!?死んだ猫をヘリコプターに」(http://sankei.jp.msn.com/world/news/120605/erp12060513050004-n1.htm
「死んだ猫」の先例としては、ルーブル美術館にあるジェリコー静物画(「死んだ猫」)を挙げることが出来るかと思いますが、たぶん関連性はないと思います。

ジェリコー「死んだ猫」(1820年

エミリア・ロマーニャ州地震の被災地向け寄付金口座が開設されたようです。
以下、在日イタリア大使館HPより転載(http://www.ambtokyo.esteri.it/Ambasciata_Tokyo

エミリア・ロマーニャ州地震の被災地向け寄付金口座開設

先般、北イタリアのエミリア・ロマーニャ州地震が発生し、市民が大きな被害を被ったことに伴い、当在日イタリア大使館に募金に関する数多い問い合わせが寄せられました。このような、日本国民の善意の気持ちに応えるために下記の口座を開設しました。被災者のために寄付されたい方々は、こちらに送金され、振込用紙の「Applicant」欄にお名前の後に続けて3001 102というコードを必ずご記入ください。
 尚、この口座は日本円のみ受け付けられます。

 振込先
銀行名   :三菱東京UFJ銀行 本店
口座番号  :当座 0143319
名義(カナ);インテーザ サンパオロ エッセピーアトウキョウシテン

村上隆×椹木野衣「アート憂国放談」(『芸術新潮』2012.5月号)

村上隆について。確か、以前は近代化以前の日本の美術には「ヒエラルキー構造はない」と発言していたと思うのですが、今度は一転して、「日本の歴史において芸能、芸術の徒は非人であり、人ではないものに分類されているにもかかわらず、人間としてのアイデンティティを奪還せよというような近代西欧の教育思想のみの肥大が問題であった」と、身分制によるヒエラルキー構造を前提とした発言をされているようなので、この発言について少し考えてみたいと思います。

村上による「日本の歴史において芸能、芸術の徒は非人であり」という発言は、網野善彦(『中世の非人と遊女』)の名を借りて語られていますが、網野がいう「非人」というのは、要約すれば、本来は天皇や神仏に直属する地位にあった人たちのことです。つまり神仏に仕える奴婢。「神奴」「仏奴」と、「聖別」されていた人たちのことです。彼らは聖なる存在に仕える身分であったので、一般の平民たちとは区別され、課役の免除や、自由な通行権の保証などが与えられていたと考えられていますが、網野の学説の特徴は、これらの人々の特徴を平民にはない職能をもった「職能民」であったとし。そこに仏師や石工のような手工業者、白拍子や猿楽のような芸能者、さらには借上げとよばれた金融業者までも含めて、中世という世界を広く捉えようとしていた観点にあります。

ところが中世の後期になりますと、神仏の権威の低下が起こり。それまで神仏に使える職能民として「聖別」されていた人々は、これまで「聖別」されていた存在であった故に、今度は逆に「賎視」の対象とされていくことになります。「聖」から「賎」への転落が始まるのですが、一番の大きな要因としては、網野が「異形の王権」と呼ぶ後醍醐帝による健武の親政の失敗と、それに続く南北朝の動乱があげられます。これにより天皇権威の低落、宗教的権威の低落が起こり、武士による俗権力が強固なものとなっていきます。ここで重要なのは、世俗の権力が宗教的権威の上に立つ道が開かれたことでです。それ以前のことを言えば、天皇(王権)と宗教(仏権)は、両輪の関係であったのですが、天皇権威が低下したことで、宗教的権威も俗権力の軍門に下っていくこととなり、社会からアジールが消えていきます。

神仏の権威の低下は、当然、それまで神仏の権威に依拠していた人々に、俗権力による庇護を必要とさせていきます。しかし商工業者や金融業者のように、富の力によって社会的地位を俗権力の中に確保することに成功するものと、遊女や非人のように見捨てられていくものに分かれてしまい。芸能民や宗教民は「賎視」され続けることになります。こうした状況は江戸時代になると制度的に固定化される事となり。これまで遊行の民であった人々にも定住化が義務づけられて、そこから遊郭被差別部落といったものが生まれてくることになる。大よそではありますが、網野の非人や遊女に対する歴史的な考察とは、このようなものです。網野の学説の特徴というのは、「下からの言説」を問い直すことで、これまで自明と思われてきた歴史を相対化し、「日本」という概念を疑うところにあると思います。一般的に網野の学説が参照される場合も(私が知る範囲ですが)、このような理解から国民国家や市場社会の問い直しとして使われている場合が多いと思うのですが、村上の発言で驚くのは、これとは逆に、近代国家や市場社会を肯定する発言として、網野の名前が使われていることです。

正直に言うと、私には、村上の「非人」という発言の真意が、何処にあるのかが分かりません。日本の現状を無視して西欧近代を採り入れている教育思想に対する批判にあるのか。あるいは単に若い人を押さえつけたい・説教したい、という事にあるのか。どちらなのかは分かりかねます。ただ、たとえ村上の真意が、若い人たちに日本で芸術なり芸能の地位が低いのは、前近代的身分制度に由来するものだということを自覚させて、その上での行動を求めるものだとしても。そうした現状は、西欧的なものを排除すれば改善するものだとは思えません。もし村上が、西欧的な思想が肥大化していることが事の原因と考えているとしたら。彼が、そのことによって阻まれていると考えているのは、前近代的身分制度を前提とした縦の秩序の方ではないでしょうか。

私がそう疑うのは、村上の千利休に対するコメントからです。村上は、この対談で千利休についても言及していますが、村上が利休に触れながら、「覇王にくっついて、文化の手ほどきをする」「覇王のヴィジョンを具現化する」というコメントする時、縦の秩序が強く意識されていると思うのは、私だけでしょうか。もっとも村上の、利休の本質に対する理解には幾つかの訂正が必要だと思われます。たとえば利休というのは、確かに日本の美術史では珍しく政治に深く関与した人ではあるのですが、利休という例外を可能としているのは、「茶の湯」が上下の身分という序列を無化する場を提供していたからです。つまり茶の湯には「無礼講」の論理が入り込んでいるということです。これは南北朝以来の伝統であって、後醍醐天皇が源氏や平氏といった武臣を介さずに、民と直接結ぶつく親政を興そうとした際に、無礼講の場として活用していたことは有名です。しかし、この論理が歓迎されるのはあくまでも乱世の事であって、太平の世では必要とされません。だから当然、利休が重宝されるのは戦国乱世までであって、世が太平に向かえば排除されることになります。

なぜなら利休に求められたのは政治の場に、世俗の序列を無効とする芸能的な寄合。つまり横の関係を持ち込むことであって、「覇王のヴィジョンを具現化する」ことではないからです。従って「覇王のヴィジョンを具現化する」ことを求めるとするなら、まず行われなければならないのは、利休的な横の関係・理論を排除することとなります。つまり下克上を許さない縦の秩序を構築するということです。なぜ「千利休を継承」すると言う村上が、利休的なものを排除しなければならないかというと。村上が「覇王のヴィジョンを具現化する」と言うときに想定されているのは、実際は利休的なものではなく、利休的なものを排除した後に構築された縦の秩序であるからです。

江戸時代の文化を見ると、縦の秩序が厳格に守られていることが分かります。たとえば北斎芭蕉のように、この時代の文化を支えた人たちの多くが、武士階級の出自であるのですが、こうした人たちが制作活動に専念するには、宮仕えをやめて、町人になるか、出家するしかい。縦(身分)の秩序というものが極力、荒らされないようにされている訳です。この点を無視して江戸時代を町人文化の勃興と言っているとしたら問題があると思います。もちろん、そうした状況の中でも歌舞伎のような「下からの言説」が確保されていたことが、この時代の文化の重要性であるのですが、ここで問題とすべきは、このような縦の秩序がなければ、作品が可能とならないのか、ということではなく。このような秩序を想定しなければ、作品に対する評価も権威も保てない・得られないと考える村上の思考の方であると思います(村上隆という人の分からないところは、「非人」ということを言うのであれば、こう言う時にこそ「お金」を肯定する発言をして、そのことが前近代的な差別構造から芸術家の地位を引き上げることになると言えば、それなりに筋も通るし、人からも理解されるだろうと思われるのに、そういう事は言わずに、自身の権威を確保するために、前近代的な秩序を求め、権威者に依拠したヒエラルキー構造こそが芸術や文化を生産していくという発言をしているところです)。

永瀬恭一「脱美学―ブロークンモダンの諸相」(『組立−作品を登る』)

「批評がない」という定型句に対して、「批評はあるけれども構造に従属している」のが現状だという分析と考察は鋭い。おそらく、この論考を通して著者が読者に求めているのは、現状に対する認識の問い直しだけではなく、批評を十分に機能させない「構造」を自覚することで可能となる、より具体的なリアクションであると思うのだが、残念なことに、私にはとてもそうした行動は起こせそうにないし、大した意見も言えそうにない。ただ、それでもここには無視出来ない問題が提示されていると思うので、簡単に触発された考えを纏めておきたいと思う。


まず気になったのは、プロとアマの住み分けについての問題である。永瀬の論考では、プロ・アマの問題は、論を進めていくための前提として確認されているだけなので、突っ込んだ議論とはなっていないが、興味深いのは美術評論化連盟会長に就任した峯村敏明のインタビュー記事(毎日新聞2012年1月26日)から、web上のlogに氾濫するアマチュアの批評、ことばに対して、それは「批評でない」という切り捨てがプロの側からなされていることが指摘されていることである。なぜweb上に氾濫する批評は「批評でない」と切り捨てられるのか。確かに、それらは批評と呼ぶにはあまりにもいい加減で、不正確なものであり過ぎる。しかし、峯村の「今はインターネット上で言いっ放し。共通の話題も、受け継ぐ歴史も形成されない」という言葉は、林達夫の「アマチュアはアマチュアらしくなるべく自分の経験を地道に述べるべきだ」(「アマチュアの領域」*1)という言葉と比べると、些か寂しいものである気がする。

林の言葉は、園芸文化におけるアマチュアの役割について述べたものであるが、この言葉が前提としているのは、専門化には、アマチュアが語る経験を吸収し、それを新しい知識・概念にする役割があるということである。林がアマチュアに対して、「専門家のように完備した広汎な知識、あらゆる場合に適用し得る概念を彼らは目指すことは出来ないし、またそれを誰も要求しはすまい」というとき、専門家には、これとは逆にあらゆる場合に適用し得る概念と、広範な知識が完備されていることが要求されている。これに対して、内容の不正確さ故に、「批評でない」とアマの側を切り捨てる日本の美術批評界が前提としているのは、もはや専門家の側に、アマチュアの意見を包括的に取り入れるだけの柔軟性も、それを体系化し得る広範な概念も知識もないという事態である。アマチュアの経験を「傾聴するに値する」として、「報告する義務がある」という林と、ネット上で「言いっ放し」という峯村の違いというのは、アマチュアに対する認識の違いだけでなく、専門家の役割に対する認識の違いでもある。峯村の「受け継ぐ歴史も形成されない」とは、アマチュアの経験を吸収し、それを新しい知識・歴史として「形成」する役割を、専門家の側が放棄していることを意味するのではないか。

もちろん、林が「報告する義務がある」と言うときに想定されていたのは、紙を媒体とした雑誌ないし新聞記事であったので、峯村のweb上の批評に対する「言いっ放し」という評価には、永瀬が指摘するように、それが「印刷されていない」ものであるから、「見えない」「気づかれていない」ものとなっている可能性があるし。そもそもプロ・アマというモデル分け自体が有効なのか、何をもってプロとアマを定義づけるのか等の問題がある。しかし、プロとアマの問題は、批評の形骸化という問題を考える際にも重要な要因であると思われるので、もう少し、プロとアマの住み分けという問題について考えてみたい。

たとえば「批評がない」と言われ続けた状況というのは、美術雑誌の詰まらなさと直結した問題であると思うのだが。では、「美術雑誌の詰まらなさ」とは何なのかと言えば、それは「美術批評がアマチュア化」していたからと言えるものなのではないのか。仮に、ここで80年代以降の美術雑誌の詰まらなさ、不満というものを、アマチュア化した美術批評の不正確さ(思いつきと思い込みによる記事)にあると考えてみるとすると。なぜ、美術批評がアマチュア化したかのかといえば、それはアマの知識を採り入れることによって、既成の概念を打破する新たな概念を作ることが目指されるのではなく、アマ的立場から、これまでプロの視野からもれていた個人的な体験を語ることが選択されたからだと、答えることが出来ると思うのだが。この時、重要なのは、新たな概念を作りあげることが既成の概念を打破するものとなると考えられるのではなく、アマ的な立場に身を置いて、ものを言うこと自体が既成の概念に対する攻撃となり得ると考えられた思われることである。

このような立場が選択された理由としては、先行する世代に対する反発などの理由が幾つか考えられるが、ここで注意したいのは、ネット上の批評が「批評でない」と切り捨てられたように、80年代以降のアマチュア化した美術批評も、実は「批評でない」と切り捨てられていたのではないのかということである。実際、美術雑誌の方が、ネットに先行して不正確な批評で溢れていたと指摘すること容易いことであるので、それらが「批評でない」と切り捨てられていたと考えることは、それほど難しいことではないと思うが、厄介なのは、それらは読者に不満を抱かせても、アマチュア化した批評とは認識されてはいなかったのではないかと思われることである。なぜ、このことが厄介なのかというと。アマチュア化した批評という認識があれば、どんなに内容がお粗末でも、それはアマの経験として、「傾聴するに値する」批評であると考える読者が現れ、新しい概念が形成されたかも知れないが、アマ的な未熟さと認識されなかった故に、「詰まらない」もの、「批評でない」という切捨てしか起こらなかったのではないかと考えるからである。

なぜ、それらは読者にアマチュア化した批評として認識されなかったのか。おそらく、それは美術雑誌というものが、どんなにアマチュア化しようとも、「上からの言説」として機能しうる場であるからである。どんなにそこでカウンター・カルチャー的な立場が選択されていようと。そこには「下から言説」や「横からの言説」を排除して、それ自体が「上からの言説」として機能しようとする性格が潜んでいる。このことはアマチュア化した美術雑誌の担い手たちに、自分たちがアマチュア化しているという認識がなければなおさらのことである。「上からの言説」として機能してしまうから、学問的実績がなくとも、アマチュア化した美術雑誌から大学にポストを得ることも可能となる。しかし、そうしてアカデミズムの中に入っても、結局はアマチュアリズムを叫ぶしかなく。そこでも「批評でない」と切り捨てられ、住み分けが行われているとしたら。批評の形骸化が加速していくのは、プロ(専門家)の不在に起因するものとなるのだろうか。そうと言ってしまえば答えは簡単なのだろうが、はっきりと言えるのは「批評でない」と切り捨てるよりも、「傾聴に値する」と言う方が難しいということだけである。

最後に、山口昌男は「アマチュアの使命」*2の中で、西欧における地理的知識の重要性を説き。アマチュア(旅行家や宣教師)によってもたらされた地理的知識(旅行記、航海記)が、思想の専門家によって、西欧社会を客観化し批判する材料とされていたことを報告しているが、この考えに従うと、80年代以降のアマチュア化した美術批評を牽引していたのは、明らかに「美術市場」というユートピアであったということが出来る。しかし、アマチュア化した美術批評・美術雑誌が破綻したのは、金融危機でも大震災の影響ではない。それが破綻したのは、それが西欧のように「人間を規定する条件が相対的なものに過ぎない事を確認」するためのもの(外部)として語れていたのでなく、日本という「悪い場」に規定され続ける条件として語られていたからである。

*1:林達夫林達夫著作集4』(1971年、平凡社

*2:山口昌男『人類学的思考』(1990年、筑摩書房

樋口佳絵・絵画展「みずたま」(art room Enoma)

色使いがロマネスク絵画的。意識しているのか、色数を制約しているのかは分からないが、褐色した赤を基調にした色使いで子供の「イコン」が描かれている。ゴシック以降に登場する彩度の高い「青」は見られない。テンペラと油彩による混合技法が用いられているが、混合技法に特有の細部描写の追求は放棄されており、テンペラ特有の透明性も、油彩特有の光沢もない。あるのは下地(白亜地かジェッソに石膏を混ぜた感じになっている)の乾いた質感だけ。絵具の質感より、下地の質感が優先されていて、フレスコ画的に絵具と支持体が一体化した感じとなっているのだが、枯れた感じの下地に絵具を吸収させているので、絵具の透明感と光沢さが損なわれている。「枯れた」感じを演出していると思うのだが、「地」に対する意識が変わらなければ、絵画的展開は望めないと思う。

樋口徹写真展「町の跡形」(PICNICA)

ギャラリー・カフェという空間の制約から、窮屈な空間に作品が展示されていたが、津波で流された建築物の基礎部分を撮影した写真郡がベッヒャー夫妻のタイポロジー作品のように組合せられて展示されていたのは印象的であった。ただ写真集『町の跡形』(会場でも一部が作品として展示されていた)を見ると、必ずしも作品をタイポロジーとして見せようとする意図がある訳ではないようで、コントラストが激しい画面に作家の主観性が強く反映されている。被災地の臨場感を伝えてくれる写真ではあるが、気になるのは震災という出来事の大きさからか、被写体との距離感が見失われていると思われる作品が多々見られること。震災を「記録」することを主題・目的とすることはよいのだが、被写体との距離感を見失うと、震災という圧倒的な出来事に作品が支配されてしまうのではないのか。多少、酷な要求かも知れないが、瞬発性が要求される報道写真でないからこそ、妥協しない冷徹さが必要とされるのではないだろうか。

テーブルとタブロー

テーブル(table)とタブロー(tableau)の関係性は、tabulaというラテン語の語源から考えるよりも、ゴッシク建築の確立によって生まれた概念、関係性と捉えた方が、より具体的なものとなる。なぜ、ゴシックなのか。ゴシック建築ではステンドグラスという「光の壁」の登場によって、壁面から絵画が追い出されることになるから。壁面から追い出された絵画は、板の上に描かれ、建築内に(例えば祭壇画として)飾られることになる。これはゴシック様式の反発から壁面を確保し続けたイタリアとは対照的。ルネッサンス期のイタリアで、フレスコ画が黄金期を向かえ遠近法が確立されるのは、壁画が描かれる壁面が確保されていたから。では、ゴシックを受容したパリ以北では何が起こったか。そこでは書き直しがきかないフレスコ画では追求することが出来なかった「緻密さ」の追求が始まる。油彩画が、フレスコが全盛であったイタリアではなく、北方の国で確立されたのにはそれなりの必然性がある。しかし、ここで問題としたいのは、この緻密さを用意したのは「写本装飾」であり、写本装飾こそがテーブルとタブローの出会いの場であったのではないかということである。ゴシック期にパリを中心として発達する写本装飾に、ゴシック建築を意識した装飾レイアウトや、ステンドグラス的な色使い(赤と青の使い方)を確認することは容易いが、ここで重要なのはゴシックを肯定的に受容した文化圏では、絵画表現の主要な場が写本装飾であったことである。もっとも写本装飾は、ミニアチュールと呼ばれる緻密な細密画を描く画家と、二次的な装飾文字を描く職人による分業作業であったので、絵の部分はテーブルの上でなく、イーゼルで描かれていたかも知れないのだが、テーブルの側に属する文字とタブロー(絵画)が同一面上に同居していることには注意したい。もちろん、ここでテーブルと机の違いを論じてもよいのだが、両者の違いというのは、むしろ絵画と言葉が還元不能な関係にあることにあるのではないのか。絵画と言葉が還元不能な関係であるので、絵画は机=言葉から離れ、テーブルの表層へと向かう。絵画と言葉。両者を結び付けていた物語の失効がこの動きを加速させていく。