「震災のあった日」

予兆というのか、予感というのかは、分かりませんが、3月11日の2日前に地震がありまして、その時に確か真夜中と早朝でしたが、そういう時間帯であったにも係わらず、直前に夫婦して眼を覚ましまして、お互いに「地震だね」という会話をしていたので、何となくリュックに簡単な荷物を纏めておきました。もっともリックに荷物を纏めておいたといっても、お水と着替えの下着ぐらいの簡単なもので、後は避難所に行けばなんとかなるだろうと気楽に考えていました。ところが実際にこちらが思っていたよりも大きな地震が来てみると、当てにしていた近所の小学校は、体育館の屋根が崩壊したということで、避難所として機能しなくなってしまいました(避難所に行けばなんとかなるだろうというのは、本当に安易な考えであったと思います)。仕方がないので、その日は歩いて嫁の実家に行き、そこに避難することになりましたが、その日は街中が停電していましたので、本当に夜空が綺麗でした。夜というのが死者の国に通じる時間、あるいは空間であるとすれば、あの夜の闇の暗さと星の輝きというのは、亡くなった方々のための世界であったのかも知れません。
当初、私たちは心配していた大きな火災がなかったので、深刻な事態に直面していることは理解していましたが、それほど被害は大きくないと思うようにしていました。ところが朝まで眠れずに聞いていたラジオから時折、「荒浜の海岸線に200〜300人の死体が打ち上げられている」とか、「女川は壊滅状態」といった耳を疑う情報がありました。それでも努めて悲観的にならないようにしていましたが、次の日の朝に、届けられるとは思っていなかった新聞の朝刊が届けられたことで、事態の深刻さを知ることになりました。


あの日から、一月以上が経つのに、沿岸部では何も変わらない状態が続いています。多くの人が困難な状況を、それを耐えることが美徳だという状況を強いられています。