劇団航海記『ヴェニスの商人』

劇団航海記([http://kohkaiki.com/top/)によるシェイクスピアの『ヴェニスの商人』(エル・パーク仙台)を観ていて、「おっ」と思ったのは、終盤の「指輪の紛失」騒動が一段落して、正に物語が大団円を迎えようとする瞬間に、アントーニオだけが大団円を迎えた仲間たちと行動を共にすることを拒否して、ただ一人舞台中央に沈鬱な表情のまま居残り、そこへ舞台後ろから現れたシャイロックが静かにアントーニオから離れた位置に立ち止まって舞台が暗転、フィナーレとなった時である。
この最後の演出が意味するのは、アントーニオの「おれは憂鬱なんだ」という独白から始まるこの劇は、終始一貫して、アントーニオの「憂鬱」を通奏低音とする「悲劇」であったということであると思われるのだが、アントーニオの憂鬱(メランコリー)が近代を先取りした内面化された自我であり、往々にして「個の意識」というものが、罪の意識が内面に転位されて発見されるものであるとしたら、ここでアントーニオと内面性共有しているのは、彼が命を賭して友情を守ろうとしたバサーニオではなく、宿敵のシャイロックであったとなることになると思われる。なぜバサーニオではなくシャイロックなのかというと、ここで彼とそれを共有出来る条件を持っているのは、「人肉裁判」において、共同体から異質な他者として排除されるシャイロックだけであるからである。

もっともシャイロックに、どれ程自分の罪が意識されているのかは未明ではあるし、もとよりアントーニオに、内面化された自我を語るという後(一八世紀)に生まれる近代小説的な告白方法を望めない以上、アントーニオの「憂鬱」は、物語の中において語りうる「内面」としてではなく、「沈黙」として了解されるのは妥当であると思うのだが(「語りえぬものについては、沈黙するしかない」のである)、フェィナーレにおいて、物語の始まりと終わりが、アントーニオの「憂鬱」と「沈黙」として示されたということは、この劇は「喜劇」であるにせよ「悲劇」であるにせよ(或いはそれ以外の何かであるにせよ)、この物語の始まりと終わりを結びつける「主題」というものが「何であるのか?」ということが問われなければならないということである。なぜならアントーニオというのは、憂鬱に支配されてはいるが、彼自身はそれが何であるかを語る術を知らない身であるからである。以下、この物語の解題を兼ねながら、そのことを検証してみたいと思う。


●「喜劇」か「悲劇」か
ヴェニスの商人』の難しさというのは、喜劇と悲劇が同居している点にある。しかも厄介なことに、ここでは場面ごとに登場する人物たちが、寄せ集め的に挿話を語り継いでいくので、観客には、それらを同じ意味系列の出来事とみなす「主題」というものが、最後の最後まで見えないのである。たとえば今回の劇でいえば、明らかにアントーニオの存在というのは、劇中ずっと違和感を与えるものであったと思うのだが、フィナーレにおいて、アントーニオの大円団の場に溶け込みえない孤独感。全体のハーモニーを乱す不協和音的な存在の意味が、シャイロックの存在によって強調されることで、観客は、これまで繰り広げられていた舞台上の出来事を同じ意味系列の出来事とみなす主題が「悲劇」であったということを了解することが可能となる訳である。しかしそれは同時に、そうでない終わり方。たとえばこの劇は「喜劇」であるというフィナーレを用意することも可能だということでもある。では、この劇を「喜劇」と見なす要素とは一体何であろうか。
ここで興味深いのは、「喜劇」「悲劇」という以前に、この物語で語られる服筋には、それらがことごとく視覚を否定した挿話であるという共通点があることである。『ヴェニスの商人』に見られる視覚の否定というのは、「外観が中身を裏切る」という「箱えらび」然り、「指輪の紛失」然りなのであるが、ここで注目したいのは、たとえばランスロットと「かすみ目」の父親(ゴボー)のやり取りや、ジェシカとロレンゾーによる「盲目な恋」の駆け落ちといった、一見すると物語の中心主題と関連性が薄いと思われるエピソードにまで一貫しているということである。
特に、ここではジェシカとロレンゾーの「盲目性」に注目してみたいと思うのだが、なぜジェシカとロレンゾーなのかというと。この劇にはサレアリオーとソレイニオーという、物語が「人肉裁判」へ向けて進行していることを告げる役回りがいるのだが、ジェシカとロレンゾーには、それ以上に重要な役割が与えられているからである。


ジェシカとロレンゾー
サレアリオーとソレイニオーに与えられている役回りが、あくまでも「人肉裁判」に進んでいる状況を告げるだけの役回りであるのに対して、ジェシカとロレンゾーには、物語の行方を先行・牽引する役回りが与えられている。たとえば第二幕第六場でのジェシカのセリフを見ると。

じゃこの箱を受け取ってね。受け取り甲斐のある箱よ。ああ夜でよかった。あなたに見られなくてすむもの、この恥ずかしいわたくしの変わりよう。でもね、恋は盲目って言うもの、だから恋人たちは自分の愚かなたくらみが目に入らないの。もしも目に入ったなら、恋のキューピットだって顔を赤めるでしょう。だってこのはしたない男の姿。


ジェシカの「この箱を受け取ってね」「このはしたない男の姿」というセリフには、この後に起こる出来事「箱えらび」と「指輪の紛失」という出来事が暗示・指示されている。さらに第三幕第五場では、ランスロットによる「豚の値をつり上げる」という挑発に対して、ジェシカの「ユダヤ人をキリスト教徒に改宗させて豚肉の値をつり上げているですって」というセリフからは、「人肉裁判」とその結果が暗示されていると解釈することが可能であるし、ランスロットとのジェシカに対する挑発に対して、「国家に対してちゃんと申し開きできるぞ」と返答するロレンゾーの言葉には、裁判における「国家権力」の強制的な介入を読み取ることが出来るのであるが、ここで注目したいのは第五幕第一場での次の会話である。

きっとこんな夜だった、あのジェシカという娘が、その父親の金持ちのユダヤ人の目をかすめ、ろくでなしの恋人と手を組んでヴェニスを逃げ出し、ベルモントくんだりまで落ち延びてきたのは。

きっとこんな夜だった、ロレンゾーという若者が、お前が好きだと、愛の誓いをまちちらし、嘘八百の出まかせで、その娘の心を盗みとったのは。

ジェシカとロレンゾーによる「こんな夜ごっこ」が意味するのは、このお遊びが成立するには「人目を忍ぶ夜の闇」が必要不可欠であるということである。しかしこの「闇」とは、ロレンゾーの「ぼくの判断力が正しければ」「ぼくの目に狂いがなければ」という言葉とは裏腹に、彼の目から、ジェシカの、一晩で八十ダガットを浪費し、亡き母が父親に送った指輪を猿一匹と交換してしまうという姿を覆い隠していくのである。
そしてジェシカとロレンゾーが、物語の行方を暗示し、先行・牽引する役回りである以上、ここでの出来事が指示しているのは、ポーシャとバサーニオ、さらにポーシャとバサーニオに付属して誕生するグラシャーノとネリサたちの行く末と考えられるものである(たとえばバサーニオは「学者で軍人」である前に、破産しかけの放蕩貴族であるのだが、ポーシャにはその姿が見えていない)。
つまりこの劇が、「喜劇」として成立する要素とは、「視覚の否定性」が語られているにも関わらず、登場人物たちが視覚に惑わされて「盲目の恋」に落ちっている姿にあるのでる。もっとも「夜の闇の逃げ足は早い」のであって、この「恋(喜劇)」の行く末と終わりは大円団の中でも示唆されている(「まだ夜明けまで二時間もあるのだから。とは言うものの、夜が明けたら明けたで、もっと夜が長ければと思うだろうな」)。


ランスロットシャイロック
この劇を「喜劇」として成立させる要素が、「視覚の否定性」を無視して生まれるカップルたちの饗宴にあるとしたら、この劇を「悲劇」と見なす要素は何処あるのだろうか。ここではアントーニオを起点とした相関関係から、そのことを探ってみたい。まず注目してみたいのはランスロットという狂言回し・道化の存在であるのだが、この劇にはランスロット以外にも道化を自称するグラシャーノという登場人物がいる。しかし、グラシャーノに認められるのは「勘違い」であって、彼は真の道化でない。なぜならランスロットが、この劇において道化として立ち振る舞える自由を与えられているのは、「貧富の差」でなく「階級の差」に由来するものであるからである。「貧富の差」があるから道化として振る舞える自由があるのでなく、「階級の差」があるから道化として振る舞える自由があるのである。
一見するとランスロットとアントーニオ(或いはバサーニオ)の間にあるのは「貧富の差」であるように見えるが、「階級の差」とは両者が同じ地平に立っていないということを意味ており、両者が同じ地平に立っていない以上、そこでは「格差」が問題となることがないのである。そこで「格差」が問題となるには、両者が同じ地平に立っているという前提がなければならない。しかしアントーニオとグラシャーノの間には「貧富」の「格差」は発生し得ても、アントーニオとランスロット(或いはバサーニオとランスロット等の)の間には「階級の差」は発生し得ても、「貧富の差」は発生し得ないのである。なぜなら両者は同じ地平に立っていないからである。同じ地平に立っていないということは、つまりランスロットには、他の登場人物たちの間を道化として自由に横断する自由があるが、グラシャーノには道化として物語の中を横断する自由がないことを意味している。
つまりランスロットという道化とは、貴族社会の周縁者なのである。そしてここには、もう一人貴族社会からはみだした人物がいる。その人物とは当然、シャイロックのことであるのだが、シャイロックの元を飛び出したランスロットがバサーニオに雇われる場面からも分かるように、ランスロットは貴族社会の周縁者であるかも知れないが、彼はシャイロックと違い、貴族社会から異端・異教者扱いされて排除されないのである。


●アントーニオとシャイロック
ランスロットシャイロックの違いとは、前者が貴族社会に包括されるのに対して、後者は貴族社会から排除される点にあるのだが、ランスロットが「周縁者」なら、シャイロックは貴族社会を脅かす「境界者」である。ここで問題となるのは、後者を裁くものが何であるかということであるのだが、ここで法の力を行使してシャイロックを裁くポーシャには、明らかに論点のすり替えが見られることを指摘しておかなければならない。
なぜなら確かに、そこでは「慈悲」が示されることが求められているのだが、最終的にそこで争われているのは「正義」ではなく、「法」(国家)との対立であって、示されるのは「正義」ではなく、「法」の力であるからである。つまりシャイロックを裁く「人肉裁判」とは、単純な善因善果ではないのである。「法」(国家)によって裁かれるシャイロックの異質性は、徹底的な他者性として、物語の中だけでなく、観客からも感情移入が不可能な他者として裁かれる。なぜならこの徹底的な他者性が、彼とアントーニオを結ぶ内面性を生むものである以上、彼に望まれているのは孤独者であることだからだ。
従って、この劇が「悲劇」として成立するには、シャイロックとアントーニオの関係性を無視することが出来ない。この両者の関係性というのは、宿敵同士というよりも表裏一体的な関係と呼ぶべきものであるのだが、興味深いのは、ポーシャによる「キリスト教徒の血を一滴も流してはならぬ」という判決に見られる「視覚の否定性」(視覚は対象を切り離す!)には、リアリズムに対する否定があるということである。つまりアントーニオは近代を先行する人物であるのだが、この劇自体は後に訪れる十八世紀的なリアリズムを否定しているのであって、シャイロックは、本来ならアントーニオが直面するべき自我の危機という事態を代行していると見ることも可能なのであるということを、最後に指摘しておきたい。