木村幸恵「レイコの日本【美術】留学」

川口市立アートギャラリー・アトリア | Kawaguchi Art Gallery ATLIAで開催中の荒木玲奈と木村幸恵(http://www.sachie.info/framesetJ.html)による『まひるの夢』展から、木村幸恵の作品について。

木村の作品の特徴というのは、おそらく「幽霊」という実体のないものを視覚的に造形してみせることであって、それは作家の言葉でいえと「形をあたえる」ことで、「見えるもの/見えないもの」の境界を暗示してみせることであると思うのだが、ここでは精巧に造形されている透明なビニールのモビールではなく、それを動かしているファンのノイズ(騒音)について注目してみたいと思う。

何故、ノイズなのかというと。「幽霊」といのは、本来、聴覚と皮膚感覚から「見えないもの」たち(死者)の声を聞く盲人芸能者たちによって語られてきた、声の文化に深く結びついたものであるので(たとえばあの世から「平家」の鎮まらざる御霊の声を聞き語る琵琶法師)、それは視覚からではなく、聴覚から直接私たちの内部に侵入してくるものであるからである。

もっとも木村の作品に見られるノイズというのは、非常に均質な機械音であるので、それは琵琶法師が発する琵琶のノイズとは幾分か異なるものであるかも知れない。しかし「平家」語りの琵琶法師が、「見えぬ世界」の「聞こえぬ声」を語る媒介者であって、彼らが語る物語というものが、「私」という主体から語られるコトバによる物語でなく、複数のペルソナによって綴られるコトバの物語であるという事実には、木村の作品と共通する要素があると思う。

たとえば琵琶法師のシャーマニックな存在性というのは、「見えるもの/見えないもの」の境界とは、「語れるもの/語りえないもの」の境界でもあるということを教えてくれる。

ここで重要なのは、木村の「幽霊」とは、自己の「死」をイメージした「私幽霊」(しゆうれい)なるものであって、これは「私」という言葉からも分かるように、「平家物語」のような「大きな物語」を前提として他者の声を聞き語るのではなく、「私」という近代以降のコンテクストを前提として語られる「小さな物語」であるということを意味していると思われることである。

言うまでもないが、人間というのは、自分の死というものを体験することが出来ない存在であるので(それは他人の死によってのみしか体験することができない)、木村の「私幽霊」には、「私」という主体・主語を前提としながら、「私」は「私の死を体験して語ることが出来ない」というパラドックスがある。

「私」は「私の死について語れない」というパラドックスは、木村に、「私」ではなく、「他者」の声を聞き語らせることを強いる。実際「レイコの日本【美術】留学」と題されたビデオ作品を観てみると、そこで何かを語っているのは木村ではなく、他者であって、あるのは「私」という主体から発せられる声ではなく、述語的な他者の声である。特徴的なのは、ここでは他者の声を聞き語ることよりも、他者に「私」を語らせる手法が取られていることである。

そこで描かれるのは自己の同一性を確認する為の「自画像」ではなく、自己がモデルとなることで自己の不在を証明する「肖像画」であるのだが、ここで複数の他者によって描かれ、複数の他者に語られることで消えゆく「私」という主体には、何処か自己同一的な発話主体をもたない琵琶法師をイメージさせるものがあったと思う。