佐藤忠良

宮城県美術館には佐藤忠良記念館が併設されているのだけれど。佐藤忠良という(たぶん一般的には彫刻家としてよりも『おおきなかぶ』(福音館書房)という絵本の原画者としての方が有名だと思われる)彫刻家の作品の凄さというのは、実生活や実社会のレベルではまず気がつかれることがない。日本人の「肉体の貧弱さ」というものを作品化していることだと思う。

佐藤の彫刻には、生き写しかと見間違えるほどのリアルさがあって、そこにはある種の怪異性が宿っているのだけれど。戸惑うのは、佐藤の彫刻に見られるリアリズムというのは、プロポーションというものを犠牲にして成立しているリアリズムだということで、佐藤の彫刻ではプロポーションの理想化ということが全く考慮されておらず。一般的な西欧彫刻に見られるような造形性がありません。ここにあるのは理想的なプロポーションではなく、プロポーションの歪さであるので(この歪さというのは、おそらく骨格レベルの問題だと思う)、ここでは造形性よりも、ヴォリュームの欠如が強調されることとなります。

これをリアリズムの徹底化と見るかどうかは意見が分かれるところだと思いますが、佐藤の彫刻の重要性とは、日本人の肉体が貧弱なものであることを客観的に教えてくれる事と、この貧弱な肉体と向かい合うことの重要性を教えてくれることです。たとえば佐藤のデッサンを見ると、そこでは彫刻に於いては確認出来る「肉体の貧弱」さが見当たらないのですが、これは平面の上でなら、それらを誤魔化すことが可能だからです。デッサンだけ見れば、それは西欧と比較しても何ら遜色のないものです。しかし、彫刻に於いてはそうはいかないのです。特に、ヴォリュームの欠如というのは隠しようがないものなのですが、佐藤の彫刻の不気味さ(或は不思議さ)というのは、西欧彫刻の基準からするとそれらは明らかに「変」なものであるはずなのに、それらは紛れもなく「私たちの肉体」であるということを語っていることです。

※前回の記事に「宮城(仙台)は美術が不毛の地である」と書きましたが、佐藤忠良を土台にして日本人の肉体に取り組む人が表れたら面白いと思う。と言うか、仙台で美術を志すのに他に有効な方法があるとは思えないのですが、現実的には難しいでしょうね。