震災とリアリズム

震災とリアリズム

東日本大震災以降、震災と美術の関係を考える時に、関東大震災と美術の関係が参照されることが多くなりました。しかし、東日本大震災関東大震災を比較した時に気が付くのは類似点ではなく、相違点です。もちろん、ともに大きな犠牲と破壊をもたらした災害であることに変わりはありません。しかし関東大震災に直面した作家たちには二つの選択肢があったと言えます。一つは破壊された場所に「新しいモダニズム」を建設するという選択。もう一つは「日本回帰」という場所に避難するという選択です。これに対して東日本大震災に直面した私たちには、どのような選択肢があると言えるでしょうか。おそらく、私たちには「新しさ」も「回帰」する場所(歴史)もありません。私たちに「新しさ」が言えないのは、現代がモダニズムの終わった後の「ポスト・モダニズム」の時代であるということだけでなく、被害が集中した沿岸部が、大都市でなく過疎地であったことが大きく影響しています。「東京オリンピック」というアドバルーンがあげられるのは、震災や戦禍から何度も復興してきた東京の姿にあやかりたいからでしょうが、被災地の復興には何の関係はありません。

関東大震災後の東京に「新しいモダニズム」だけでなく、「日本回帰」というヴィジョンがありえたのは、震災で一掃されるまでの東京には、まだ「江戸」の面影が残っていた為、回帰するべき過去が比較的身近にあったと言うことが出来ます。しかし震災後の東京の復興は「江戸趣味者」たちを満足させるものではありませんでした。彼らの要求を慰めたたのは、むしろ東京ではなく、東京を離れた地方都市であったと言えます。代表的な例が関西に移住してから「古典回帰」に成功した谷崎潤一郎ですが、谷崎的な成功を美術の分野から見つけ出すのは難しい作業となります。たとえば震災後に関西に移住した岸田劉生。劉生も谷崎と同様に関西で「古典回帰」を模索していますが成功していません。震災後の劉生を比較するなら、谷崎よりも芥川龍之介の方が適任と言えます。つまり「新しいモダニズム」にも、「日本回帰」にも着地点を見出すことが出来なかった二人です。

芥川が「新しいモダニズム」にも「日本回帰」にも着地点を見出すことが出来なかったといのは、もちろんその末路から導き出された答えですが、芥川の末路を考える時に思い浮かぶのは、芥川が震災後の東京で「死体」を観察して歩いていた川端康成を案内人として、川端と一緒に「死体」を見て歩いたというエピソードです。「新しいモダニズム」の旗手となる川端康成が、震災後の東京で「死体」を観察して歩いていたという事実は、震災後に登場する「新しいモダニズム」が、「死体」観察というリアリズムに培われたものであったと言うことですが、ここで問題としたいのは、私たちは芥川の「ぼんやりとした不安」という言葉を、戦争へと向かっていく時代に対する不安と捉えがちですが、そうではなく震災というこの世の生き地獄を眼にしながら、それを「ぼんやり」としか言語化出来なかった故の、結末ではなかったのかということです。

芥川には川端のように「死体」を観察し表現するリアリズムはありません。芥川と同じように被災地を歩き回り新聞に『東京災難画信』を発表した竹下夢二にも、時代に対応したリアリズムがなかったということが出来るかも知れませんが、ここでリアリズムを問題とするのは、もし東日本大震災関東大震災の間に何らかの類似性があったとしても、そこから生まれるリアリズムには大きな差異があるだろうと考えるからです。つまり、今回の大震災後にリアリズム的な傾向の作品が生まれるとしても、それは川端の様な「死体」を観察するリアリズムとは違うものとなるだろうと言うことです。もちろんここで「死体」(あるいは「遺体」)を問題とするのは、諧謔趣味からではありません。リアリズムの「質」を問うときに、私たちの視線から「死体」が秘匿されていることを確認する必要があると考えるからです。

被災地を撮影した写真は膨大な数になるでしょうが、そこで犠牲となられた方々のご遺体を眼にすることはまずありません。また、そのことを疑問と思うこともないと思います。しかし写真と死の親和性(たとえばソンダクは「写真はいつも死と連れ立っていた」と述べている)を考えれば、秘匿の徹底さには驚きがあります。もちろん写真と死の親和性を確約するのは、「死体」を被写体としているかどうかではありませんが、リアリズムの「質」を問題にした場合、実際に自分がそれを眼にしているか、その場に立ったのかということは無視できない要素となります。たとえば石井光太の『遺体』の様な優れたルポルタージュを読んで分かるのは、死者に対する尊厳という以前に、私たちには指摘されなければ「遺体」が秘匿されていることを疑問と思う素地さえないということです。

死者に対する態度の違いはそれぞれの時代の倫理観の違いとも言えますが、ここで震災後のリアリズムの「質」の違いを問題とするのは、関東大震災後に台頭してくるリアリズムの一つに戦争画という問題があるからです。戦時中に藤田嗣治宮本三郎、中村研一、といった面々が特権的な地位を得たのはリアリズム的な技法の確かさによるものですが、彼らのリアリズムの「質」を問うと次のような疑問が生まれます。それは、たとえば藤田嗣治の経歴を見ると、彼は関東大震災を経験していないだけでなく、第一次世界大戦をパリで過ごしながら、大量破壊と大量殺戮の意味を全く理解していないことが分かりますが、もし藤田がこの二つのうちの一つでも自身の問題として経験し理解していたならば、あのような戦争画を描いたのかという疑問です。

戦時中の藤田がシュルレアリスムダダイズムを否定する発言をしていることはよく知られたことですが、藤田の発言は思想統制化の影響によるものではなく、シュールレアリスムダダイズムの持つ20世紀的な意味が全く理解出来なかったからだと私は考えます。私がそう考える根拠は、藤田には第一次世界大戦がヨーロッパに齎した精神的な危機の意味を全く理解出来ていないと思うからです。そして日本美術の不幸は、20世紀美術の意味を全く理解しなかった藤田を、ただ洋行帰りということだけで持て囃し、ヨーロッパを理解したと勘違いしたことです。藤田経由の勘違いは、今日でも眼にすることが出来ます。たとえば村上隆は藤田の作品に当時の世界性があるとする発言していますが(『美術手帳』2014年4月号)、村上の発言の的外れさは、藤田がもっとも活躍したパリでさえ、彼の作品が常時展示されているのはパリ市立近代美術館ぐらいだということからも分かります。

常設で展示されている藤田作品の少なさは、藤田の20世紀美術の理解の無さと関係しています。藤田は「ベル・エポック(古き良き時代)」の住人ではあっても、20世紀の芸術家ではないのです。アメリカ経由でフランスに舞い戻った藤田が日本に対する怨嗟を吐き続けたのは、「不遇の天才」という19世紀的な芸術家象を生きるには、「日本では理解されない」という不遇感が必要であったからです。戦争の悲惨さを身近なものとして経験しながら、そこから20世紀美術の意義を読み取る機会を逸した代償は大きかったと言えますが、日本における藤田の受容のされ方について考える時に重要なのは、保守画壇の方が藤田の非前衛性に気が付いていたと思われることです。

終戦後の文献に眼を通すと、戦争画の責任云々と言う前に、保守画壇の方が藤田の非前衛性に気が付いていた節が確認出来るのですが、興味深いのは藤田の非前衛性を無視して、藤田を「不遇の天才」として積極的に神話化していくのが『美術手帳』という現代美術を標榜する雑誌だったということです。現代美術を謳う雑誌が「不遇の天才」という19世紀的な芸術家像を重宝するのは、何とも奇妙な話ですが、「日本では理解されない」という不遇さをもって、自己を特権化する物語が今日まで温存されていることは見逃せません。なぜなら「藤田は本当は戦争に反対していた」という19世紀的な悲劇的理解が成立するには、藤田の20世紀美術に対する無理解を無視しなければならないからです。ここ見られる藤田理解の差は、リアリズムの「質」の違いによるものだということは言うまでもありませんが、残念ながらこのことが広く理解されているとは思えません。