二週間ほど、仕事の都合で仙台を留守にしていたのだけれど、東北を出ると被災地の情報が驚くほど入ってこなくなる。もちろん震災と無縁な生活が悪いわけではないのだけれど、震災のことよりも、今年の花粉症の方がいかに酷かったということを延々と語る人と出会うと、こんなにも被災地が遠いものなのかと、絶望的な気持ちになる。仙台に居れば、語らずとも共有される思いが通じない理解されないという困難、あるいは苦しみ。
東京で、原発について語る人は沢山いるのだけれど、原発のことなど二の次にならざる得ない人々がいるということも忘れないで欲しい。結局、被災地の声というのは、被災地から発していかなければならいということなのだろう。しかし、聞き手に聞くという気持ちがなければ、それは通じない。